T. W.アドルノは,M.ホルクハイマーとの共著『啓蒙の弁証法』で論じたテーマ,すなわち,啓蒙的理性は,なにゆえ普遍的解放の約束をしながら,自ら道具的理性となって,暴力と野蛮へ逆転してしまったかという問題を,その主著『否定的弁証法』の中で論じ尽くそうとした。 G.ヘーゲルは歴史の全体を理性による自己意識の過程としてとらえた。絶対的に普遍的な存在としての理性は,特殊な存在 (文化,芸術作品,個人など) を自己実現の契機とし,しかもその特殊性を損うことなく意味づけ,包摂する。しかし歴史が明らかにしたのは,アウシュウィッツにおいて暴露されたように,この弁証法の自己解体であった。アドルノは,理論一般を断念し,そのつど「限定否定」を実践することによって,「同一ならざるもの」すなわち個や特殊性を追想し続ける。こうして近代的理性が道具的理性として一面的にしか実現していない事態をなんとか克服して,自然との融和,特殊性との媒介,すなわち「ミーメーシス」を成し遂げようとした。