人間に固有の思考力,認識力は一般に〈知性intellect〉ないし〈理性〉と呼ばれ,古来,規則に従って分析し論証する〈悟性understanding〉,原理・始元を直覚・洞察して総観し統括する〈理性reason〉の二面を含むとされる。本能,感覚,記憶,想像,意志とは区別され,また啓示や信仰に対置されてきた。
理性という訳語は,事物の本性を示す仏教用語〈理性(りしよう)〉および〈道理〉とともに,1881年(明治14)の《哲学字彙》でreasonに当てられた(1870年西周(にしあまね)はreasonを人間に備わる〈性の智〉,86年中江兆民はフランス語のraisonを〈良智〉と訳した)。ドイツ語のVernunftには1870年西周が〈智〉,85年に有賀長雄が〈理〉〈道理〉,96年には清野勉が〈理性〉を当てた。ラテン語のratioは明治30年代に桑木厳翼が〈理性〉と訳し,ギリシア語のnousは1881年の〈万有叡智〉,明治30年代の〈心霊〉の訳語のあと,明治40年代の末に〈理性〉と訳された。なおrationalの訳は1881年以来〈合理的〉である。次に悟性という訳語は81年にはunderstandingに当てられ,明治30年代以来ドイツ語のVerstandの訳語でもある(1885年には〈理会力〉,96年には〈解性〉がVerstandの訳語であった)。intellectの訳語は,1881年には〈智力〉,明治30年代から〈知性〉〈知能〉が加わり,明治40年代の末から〈知性〉に定着する一方,〈知能〉をintelligenceに当てる用法が増す(1886年に中江兆民はintelligenceを〈智〉〈智の機能〉と訳した)。他方,intelligenceは明治・大正期以来〈叡智〉〈叡知〉の訳語があり,大正期には超自然界・叡知界の認識能力としてのラテン語intelligentiaが〈叡知〉と訳された。
アリストテレスは〈感覚aisthēsis〉に対して人間固有の思考力を〈理性nous〉と呼び,直覚的に原理・始元を洞察する〈直覚知noēsis〉と,分析的に判別し抽象する〈分別知dianoia〉とを含むとした。中世のトマス・アクイナスは理性を〈知性intellectus〉または〈論証的理性ratio〉と呼び,双方は等義に用いられることもあるが,前者は諸原理の直覚知と超自然界の認識能力である〈叡知intelligentia〉をも含み,この点でアリストテレスの〈直覚知〉の系統を引く。後者は〈論証的推論ratiocinatio〉を派生する点でアリストテレスの〈分別知〉ないし古代の〈論証力logistikon〉の系譜に属し,かつ近代の論理的・論証的な〈理性reason〉の先駆となる。広義の理性は〈直覚知〉〈知性〉の系統と〈分別知〉〈論証的理性〉の系統とを含むが,双方の区別と連関との明示はカントとヘーゲルの出現を待たねばならなかった。
ドイツ語の〈理性Vernunft〉と〈悟性Verstand〉とは古高ドイツ語にさかのぼる。ルターは悟性は知的なもののいっさいを含んで意志に対立し,理性は吟味し反省する認識として信仰に対立するとした。ドイツでは16世紀以来,中世的な〈知性intellectus〉に悟性を,〈論証的理性ratio〉に理性を当て,悟性は心の最高で内的な働きとして理性より上位に置かれた(カント以降と逆である)。他方,デカルトは精神の機能を〈知能ingenium〉と〈意志〉に分かち,前者の中で〈知性intellectus〉には洞察・直観・演繹(えんえき)の働きを認めるが,この知性を〈理性ratio〉とも呼ぶ。ロックのunderstandingは,外的・内的な知覚と〈論証能力〉としてのratioすなわちreasonを含み,全体としては中世的な〈論証的理性〉の系統に属する。ライプニッツは〈事実の真理〉と〈理性の真理〉を認め,〈理性raison〉は諸真理の連関を覚知し推論する能力とし,C.ウォルフは悟性は知的なものを包括して意志に対立し,理性は諸真理の連関の洞察であるとした。また18世紀にはイギリスの〈常識common sense〉がドイツで悟性に結びつけられ,無反省に生活で使用される〈通俗的悟性gemeiner Verstand〉よりも〈論究的理性räsonierende Vernunft〉が上位に置かれるようになった。
カントは認識能力を諸対象を直観する受容的な〈感性〉と,諸対象を概念で思考する自発的な広義の〈悟性〉とに分かち,後者を狭義の〈悟性(概念・規則の能力)〉〈判断力(判断の能力)〉〈理性(理念・推論の能力)〉に分けた。理論的な理性はこの広義の悟性と一致し,感性によって与えられる現象界を超越しえず,自由を説きえないが,実践的には理性は意志を規定する原因性として,感性的衝動の克服を命令し,自由を要請しうる。カントの理性は,理論的認識面では古代の〈分別知〉と中世の〈論証的理性〉に連なる悟性であり,実践的行為面では古代の〈直覚知〉と中世の〈知性〉に連なる理性である。ただしカントは直観を悟性・理性には許さず,〈知的直観〉を拒否した。
カントは〈実践理性の優位〉を説き,理性の悟性に対する優位を実践面で示したが,フィヒテとシェリングはカントの拒否した〈知的直観〉を認め,理性の伝統面を復権させた(シェリングは一時ドイツの伝統に立ち戻り,悟性を理性の上位に置いた)。他方ヘーゲルは,カントやフィヒテを〈悟性形而上学〉として批判し,分析的な悟性が固守する有限なものの対立を融解させ,相互の一面性を否定して制限から解き放ち,高次の統一の新たな契機としてそれらを高め保存する働きを理性とした。ヘーゲルは心の能力としての静的で同一な従来の理性を,歴史においてみずからを展開し実現する理性へと転換させ,悟性をこの生成する理性の契機とみなした。カントの開拓した〈理性の優位〉はヘーゲルで頂点に達したのである。
しかしヘーゲルが理性を動的で生成するものとみなすとき,従来の理性・悟性の背後に想定されていた〈神的な理性〉〈創造神の知性〉もその絶対的な先在性を剝奪される。すでに18世紀のヘルダーは,理性は人類が漸次的に獲得したものと説いていた。ヘーゲルの理性観はこの考えと合体し,19世紀の後半以来,ニーチェの〈理性批判〉やディルタイの〈歴史的理性批判〉を生み出した。しかしながら,現在の世界における〈理性批判〉は,〈直覚的理性〉〈直覚知〉への批判ではあっても,〈悟性批判〉には至っていない。衝動,欲求,意志から駆り立てられ追い回されている〈知能〉〈技術的知性〉に対する人間本性からの批判は,いまだに休眠中であるように見えるのである。
→合理主義
執筆者:茅野 良男