日本大百科全書(ニッポニカ) 「呂蒙」の意味・わかりやすい解説
呂蒙
りょもう
(178―219)
中国、後漢(ごかん)末、孫権(そんけん)の武将。字(あざな)は子明(しめい)。汝南(じょなん)郡富陂(ふうひ)県(安徽(あんき)省阜南(ふなん)県)の人。貧しい家の出身ながら、戦功を重ねて成り上がった。若いころは武力一辺倒であったが、あるとき孫権に、「将軍というものは、広く学問を修め、世の中のことや兵法にも通じていなければならない」と諭された。これ以降、勉学に励み、その成長ぶりを魯肅(ろしゅく)に評価された。すると呂蒙は、「男子たるもの三日会わなければ、刮目(かつもく)して見直すべきです」と答えた。刮目(目をこすってよく見ること)という故事成語の由来である。魯肅の死後、その後任として呉の軍権を握り、曹操(そうそう)とともに関羽(かんう)を挟撃して荊州(けいしゅう)を奪った。その直後に病死したが、『三国志演義』では、すでに神として信仰されていた関羽に、呪い殺されたことになっている。
[渡邉義浩]
『渡邉義浩著『「三国志」軍師34選』(PHP文庫)』