中国、三国魏(ぎ)の創設者。諡(おくりな)は武帝。字(あざな)は孟徳(もうとく)。沛(はい)国譙(しょう)(安徽(あんき)省亳(はく)県)の人。祖父の曹騰(そうとう)は後漢(ごかん)の桓帝(かんてい)に仕えた宦官(かんがん)。父の太尉曹嵩(そうすう)はその養子である。曹操は20歳で孝廉(こうれん)に推挙され、郎中となってからは武職や県令国相を歴任した。強大な軍隊をもっていた董卓(とうたく)が少帝を廃立して献帝を擁立すると、189年、兗(えん)州己吾で起兵し、袁紹(えんしょう)を盟主と仰ぐ董卓討伐軍に参加した。しかし戦況は不利で、逃亡する士卒も多かった。董卓が死ぬと、袁紹、袁術ら群雄は各地に割拠し対立抗争した。192年、青州の黄巾(こうきん)軍が兗州に侵入すると、曹操は迎えられて兗州牧と称してこれを討ち、黄巾の精鋭30万を翼下に編入し兗州鄄城(けんじょう)を拠点として軍閥を形成した。また、陶謙(とうけん)や呂布(りょふ)を破って東方の徐州に勢力を及ぼし、袁術や黄巾軍の支配下にあった西隣の予州の一部を収めた。青州の黄巾軍をはじめ、各地で投降した黄巾軍や募兵、流寓(りゅうぐう)の徒などを吸収して直属の軍隊として編成し、兵と民との身分上の分離を行った。195年、献帝により兗州牧に任命され、翌196年、献帝を予州の許に迎え、棗祗(そうし)らの献策を用いて、許などの州郡に田官を置き、屯田をおこし軍糧の確保に努めた。
こうして、曹操が経済力、軍事力を蓄えると、冀(き)、青、并(へい)、幽の四州に軍閥を形成していた袁紹との対立は避けられなくなった。200年、官渡の戦いによって袁紹を大破して、ほぼ華北を統一した曹操は、冀州牧を領し、鄴(ぎょう)に移って根拠地とした。このころに施行した田租と絹綿を徴収する税制は、西晋(せいしん)の税制の前駆をなすものである。208年、後漢(ごかん)の丞相(じょうしょう)となった曹操は、引き続き荀彧(じゅんいく)、陳羣(ちんぐん)、鍾繇(しょうよう)などを属官として任用した。彼の腹心の臣には法家刑名の学の伝統が根強く残る潁川(えいせん)出身の者が多く、信賞必罰や肉刑などにその影響が現れている。荊(けい)州牧劉表(りゅうひょう)が死に、その子劉琮(りゅうそう)が戦わずして降服すると、曹操は襄陽(じょうよう)など荊州北部を併合し、さらに南下して江陵に進撃した。ついで劉備・孫権の連合軍と赤壁に会戦したが、敗れて退却し、天下三分の形勢となった。曹操は西方に転戦して関中を平定し、魏公の爵位を授けられ、三女を献帝の貴人とした。ついで外戚(がいせき)の夏侯淵(かこうえん)に涼(りょう)州を平定させて領域の拡大を計り、皇后伏氏を廃して、中女を献帝の皇后にたてた。また、曹操は、漢中に勢力をもつ五斗米道(ごとべいどう)の首領である張魯(ちょうろ)を親征し、216年魏王の位につき、事実上の皇帝となった。曹操は博識多芸で詩賦、草書、音楽、囲棋(囲碁)、方術などをよくし、また兵書や兵法に精通するなど、文武両面に優れていた。
[上田早苗]
『狩野直禎著『三国志の知恵』(講談社現代新書)』▽『川合康三著『中国の英傑3 曹操』(1986・集英社)』
中国,三国時代の魏の事実上の創建者。太祖武帝と追尊される。父は後漢の有力な宦官曹騰(そうとう)の養子。曹操は若いときは策略にたけた非行少年として評判はよくなかったが,なかなかの勉強家で,とくに兵法の書物を好み,《孫子》13編の注を書くなど,きたるべき〈乱世の姦雄〉になるだろうと評する人もあった。20歳で宮仕えを始め,いくつかの官を歴任したのち,184年(中平1)の黄巾の乱では一部将として討伐に手柄を立て,済南国(山東省)の相(代官)となった。やがて首都洛陽にもどって近衛部隊長になっていたとき,西方から上洛してきた武将の董卓(とうたく)が強大な武力を背景にして189年,天子の廃立を行い,首都は大混乱に陥った。そこを脱出した曹操は,翌190年(初平1)袁紹(えんしよう)を盟主とする董卓討伐軍が各地に蜂起すると,みずから集めた兵を率いて参加したが,同盟は名ばかりで,事実上これより群雄割拠の状態になる。曹操はだいたい山東省西部から江蘇省北部に及ぶ地方を勢力下に収めた。後漢最後の皇帝献帝を長安(西安)に移した董卓が192年に殺されたあと,献帝が廃墟と化した洛陽に帰ったのを見て,194年(興平1),献帝を許(河南省許昌)に迎え,ここに屯田を設けて自己の根拠地にした。
かくて献帝から大将軍の地位を授けられ,盟主であった袁紹よりも上位に立つと,両者の対決は必至となり,200年(建安5)官渡の戦で曹操は決定的な勝利を収めた。その後,202年の袁紹の死後もなお鄴(ぎよう)(河北省臨漳)を中心に割拠していた残党を204年に平定し,207年には遼寧省にまで進出して華北征服を完了した。一転して208年には湖北省を征服して,襄陽(じようよう)に流寓していた名士たちを召し抱え,さらに南進を図ったが,赤壁の戦で阻まれ,ここに天下三分の形が生じた。213年,献帝は冀州(きしゆう)(河北省)10郡をもって曹操を魏公に封じ,216年には魏王に進めたが,帝位を譲られる寸前に曹操は病死した。彼は第一級の政治家,戦略家であると同時に,すぐれた詩人でもあり,五言詩を芸術に高めて文学のジャンルを確立するのに寄与したことも忘れてはならない。
→三国演義
執筆者:川勝 義雄
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155~220
三国の魏の創始者。沛(はい)国譙(しょう)(安徽(あんき)省毫州(ごうしゅう)市)の人。廟号は太祖。父は宦官(かんがん)の養子で門地はなかったが,孝廉(こうれん)にあげられた。黄巾(こうきん)の乱を討ち,董卓(とうたく)の討伐軍に加わり,袁紹(えんしょう)らを破って華北を統一したが,赤壁の戦いに敗れて江南に進出できなかった。その間兗州(えんしゅう)の牧(ぼく)から,漢の献帝を擁して都を許(河南)に移し,魏王の位を得て実権を握った。兵戸制,屯田制,戸調制を施行し,また文学を奨励していわゆる建安文学を興した。
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…191年(初平2),韓馥(かんふく)から冀州牧の地位を奪い,鄴(ぎよう)(河南省臨漳県)を本拠として黄河北域に覇を唱えた。一時は反董卓勢力の盟主となったが,やがて黄河南域に勢力を扶植した曹操と対立するにいたった。200年の官渡(河南省中牟県)の戦において曹操に敗れ,またその死後,息子の袁譚・袁尚兄弟のあいだに争いが生じたため,華北の覇権は曹操に帰した。…
…中国,後漢末,曹操と袁紹との決戦。199年(建安4)袁紹は公孫瓚を破って河北・山西方面を統一,献帝を擁立して山東・河南方面に割拠していた曹操も袁術の病死で勢力を拡大,両者が黄河を挟んで華北を二分する形勢となった。…
…曹氏を皇帝とするので曹魏ともいう。後漢末の動乱期に,曹操が対立する群雄を倒して華北を平定し,213年(建安18),献帝から鄴(ぎよう)(河北省臨漳県)を中心とする魏国公に封ぜられたのが始まりで,3年後に魏王に進められたが,220年のはじめに死ぬ。後をついだ子の曹丕(そうひ)がその年の10月,献帝の禅譲を受けて帝位に昇り,ここに後漢は滅んで,同じく洛陽を首都とする魏国が正式に成立した。…
…後漢帝国は世襲豪族の政治・経済権掌握によって維持されていたが,外戚と宦官の権力闘争によって崩壊におもむき,黄巾の反乱と軍閥の角逐によって,その命脈を絶たれた。建安年間においても,すでに主権は宰相で,後に魏王となった曹操の手に移り,建安19年以降には,北方は曹操(魏),南方は孫権(呉),西南は劉備(蜀)の三大軍閥が割拠し,三国鼎立の情勢を形成しつつあった。漢・魏の交代は,世襲豪族から中小地主階層出身の軍閥への政権移行であり,歴史的には古代から中世への移行でもあった。…
…解放後,市となり,安慶(懐寧)から省治が移された。三国時代魏の南境であったため,合肥新城の遺構,曹操の教弩台(明教台),張遼(169‐222)の逍遥津などの遺跡がある。清代には李鴻章,段祺瑞などの人材が輩出している。…
…
[三国分立時代の形成と展開]
184年(光和7)の黄巾の乱とこれに続いて頻発する大衆的反乱は,全国に軍閥勢力を興起させる契機となった。まず外戚何進(?‐189)は洛陽警備のために八校尉を置いたが,やがて自立して群雄となる袁紹,曹操ともにその一人である。何進はまた宦官勢力を一掃すべく山西方面の軍団長董卓(とうたく)に入朝を要請した。…
…また条件づけが簡単なので,パブロフが犬で行った聴覚刺激による条件反射実験などがある。落語《しわい屋》は,梅干しをにらみ口中にすっぱい唾がたまった勢いで飯を食べる例をあげるが,古くは中国の三国時代,魏の曹操が三軍の渇をいやすため,前方に大梅林があるからそこで休息すると偽った軍令を下し,兵士はみな口中に唾を含んで渇を忘れたという。汗【池沢 康郎】。…
…今日のトゥルファン(吐魯番)盆地は,漢代の車師(高昌),交河等の屯田が基となり,漢族の居住地として成長した顕著な例である。漢末の混乱により流亡疲弊した国土を再建するため,曹操は196年(建安1),許下に屯田を開き穀100石を得,のち各地に拡充して典農中郎将,校尉以下屯官を設け,中央の司農卿の管轄下に農産に努めた。典農部民,屯田客などとよばれる屯民は,官牛を給される者が収穫の6割,私牛をもつ者が5割を官に入れ,曹魏の国力充実に大きな貢献をした。…
…中国の故事人物画の画題。196年(建安1)南匈奴の右賢王は魏の曹操の意を受けて後漢の献帝を許に移して曹操の保護下におき,帰国した。このとき大学者蔡邕(さいよう)の一人娘蔡琰(さいえん)(字は文姫)を奪って胡地に連れ去り,左賢王の妻とした。…
※「曹操」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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