デジタル大辞泉 「三国志」の意味・読み・例文・類語
さんごくし【三国志】
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中国,西晋の陳寿(233-297)の著。魏,蜀,呉の3国が鼎立した3世紀の歴史をあつかう正史。《史記》《漢書》《後漢書》とあわせて〈四史〉と呼ばれる。〈魏志〉30巻,〈蜀志〉15巻,〈呉志〉20巻。〈魏志〉の東夷伝に倭人伝がそなわることは有名(魏志倭人伝)。〈魏志〉は王沈の《魏書》と魚豢(ぎよかん)の《魏略》を,〈呉志〉は韋昭の《呉書》を参考とし,〈蜀志〉は蜀の遺臣である陳寿みずからの見聞にもとづいて書かれたものと考えられる。陳寿の記述は簡約をむねとしたため,南朝宋の裴松之(はいしようし)(372-451)の注釈は200種にあまる史料を精査のうえ,事実を補うことにこころがけた。《三国志》が3国のなかで魏を正統の王朝としてあつかったことは,後世さまざまの議論を呼び,宋の朱熹(しゆき)の《通鑑綱目(つがんこうもく)》はそれを不満として蜀を正統と定めた。《三国志》と裴松之注に材を取る明の羅貫中の小説,《三国演義》もその立場をとる。
執筆者:吉川 忠夫
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中国、三国時代の歴史を記した歴史書。65巻。陳寿(ちんじゅ)(233―297)の撰(せん)。もとは私撰の書であった。魏(ぎ)志30巻、蜀(しょく)志15巻、呉(ご)志20巻よりなり、魏志にのみ本紀を設け、志、表の類はいっさいない。このように魏を正統として蜀を退けたので、後世、正統論が盛んになると本書も非難の対象となり、蜀を正統とする『続漢書』なども書かれたが、資料批判が厳密であり、記述も三国に公平であるので、正史中でも良書のなかに入る。ただ叙述のやや簡略にすぎるところを、南朝宋(そう)の裴松之(はいしょうし)(372―451)の注が補っている。裴松之は多くの書籍を集めて注を施したが、現在散逸して伝えられていないものが含まれていて重要である。しかし本文と裴注を比較することにより、陳寿の資料批判の厳正さがよくわかることもある。魏志巻30「東夷伝」(とういでん)中に倭人伝(わじんでん)があり、わが国に関する最古のまとまった記録である。また『三国志演義』は陳寿の三国志をもとにしてつくられたものである。
[狩野直禎]
『宮川尚志訳『三国志』(1970・明徳出版社)』
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魏(ぎ)・呉(ご)・蜀(しょく)3国(220~280)の興亡を扱う中国の正史。魏書30巻,蜀書15巻,呉書20巻。それぞれ通称魏志・蜀志・呉志。陳寿(ちんじゅ)(233~297)撰。蜀書・呉書は伝のみ。魏書は伝以外に帝紀があり,魏を正統視する。官修の王沈「魏書」,韋昭「呉書」,私撰の魚豢(ぎょかん)「魏略」を参照した。これらは散逸。「後漢書」成書よりも古い。東夷伝倭人条(「魏志倭人伝」)に,邪馬台(やまたい)国ほかの諸国や倭の女王卑弥呼(ひみこ)のことが記述されている。中華書局刊。
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