日本歴史地名大系 「和佐庄」の解説
和佐庄
わさのしよう
紀ノ川南岸、現
嘉元元年(一三〇三)一〇月日付の歓喜寺住侶等寺領文書紛失状(歓喜寺文書)に「文永元年三月二日大宮殿局以紀伊国和佐庄内下村・南村両村、寄附歓喜寺」とあり、後鳥羽院の宮女大宮局が院の菩提を弔うため、長日護摩料所として文永元年(一二六四)当庄内
のちに薬徳寺は歓喜寺の名を継承するが(→歓喜寺)、文保二年(一三一八)七月八日の沙弥恵性薬徳寺別当職去状(同文書)によると、同寺別当職は恵性の「代々相伝職」であった。この恵性は、嘉暦二年(一三二七)九月三日の僧道覚・沙弥智性連署和与状案(同文書)によれば下村下司孫太郎入道智性のことで、「根本開発領主子孫」であり御家人でもあった。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報