日本歴史地名大系 「関戸村」の解説
関戸村
せきどむら
「続風土記」は「関戸古は雑賀村といふ矢宮棟札、古人雑賀野といひしも此地なるへし、是より西浜村に通して古人或は野といひ或は浦といふ、皆雑賀の地にして広くは吹上ともいへるなり、関戸は井関所の義なり、村の巽の方和歌浦の界、土地卑下なり、おもふに古は和歌浦の方より潮の入り来る所なれは堰を設け塩を防しならん、元和の頃まて和歌浦の入海関戸村の界まて入り来れり、後其地皆田畑となれとも今も猶細き溝渠ありて満潮には界まても潮入来れり」と述べ、また「天正以前雑賀孫市和歌に居城を築きし時は、当村の内矢宮の東の辺にて城下の地にして人家立並ひ市なりしといふ、今若山本町一町目の東雑賀町は此地の人家を移しゝ故の名なりといへり」と記す。
関戸村
せきどむら
関戸村
せきどむら
- 山口県:岩国市
- 関戸村
岩国城下
村名は安芸国境の関所と関係のある地名と思われるが、文献に現れるのは遅く、嘉吉二年(一四四二)二月二〇日付大内教弘の毛利元秀宛書状(「閥閲録」所収厚母七郎兵衛家文書)に「此辺にも城をあまた取候、右田岳も執候て屏手合候、関戸・山代・高水にも城を取候」とみえる。
村内の小名には
関戸村
せきどむら
関戸村
せきどむら
関戸村
せきどむら
関戸村
せきどむら
- 茨城県:笠間市
- 関戸村
関戸村
せきどむら
関戸村
せきどむら
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報