和戸村(読み)わどむら

日本歴史地名大系 「和戸村」の解説

和戸村
わどむら

[現在地名]甲府市和戸町

川田かわだ村の西、甲州道中沿いにある。北は桜井さくらい村・横根よこね村。村名はこの一帯にあったと推定される表門うわと郷の遺称で、転訛の時期は南北朝―戦国期とされている。永禄四年(一五六一)五月一〇日の武田家印判状写(「巨摩郡古文書」若尾資料)に「甲府和戸分」とみえ、同所三五貫文が軍功により加増分として河野伝蔵に宛行われている。天正一〇年(一五八二)一一月二七日の徳川家印判状写(甲斐国古文書)によれば、和戸の夫丸四分の一などが本給として河野作右衛門尉に安堵されている。翌一二月七日には和戸夫丸一人などが本給として米倉六郎右衛門(信継)(「徳川家康印判状」米倉文書)。同月九日には地内五貫文の地が本領として田沢久助にそれぞれ安堵されている(「徳川家印判状写」記録御用所本古文書)。同一七年一一月一九日には和戸郷内で一千七二俵一斗一升五合二勺が原半右衛門尉に、九九〇俵一斗六升が中村勘六に、六六俵八升三合六勺三才が窪田助十郎に、また和戸の内で一千七四俵四升八合が河野伝丞通郷にそれぞれ与えられた(以上「伊奈忠次知行書立写」御庫本古文書纂)

和戸村
わどむら

[現在地名]宮代町和戸・和戸一―五丁目

国納こくのう村の北にあり、もとは同村と一村であったという(風土記稿)。東は古利根川を境にして葛飾郡下高野しもたかの(現杉戸町)と対し、西は太田袋おおたぶくろ(現久喜市)。天正一八年(一五九〇)六月五日の北条家印判状(鷲宮神社文書)岩付いわつき領「和戸之内」とみえ、二貫文の地が鷲宮わしのみや神社(現鷲宮町)領で、北条氏より同宮甲斐守・同満寿に安堵されている。慶長六年(一六〇一)陸奥仙台伊達家の鷹場に指定された(貞享元年「久喜鷹場村数覚」伊達家文書)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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