甲州道中(読み)こうしゆうどうちゆう

日本歴史地名大系 「甲州道中」の解説

甲州道中
こうしゆうどうちゆう

当初江戸から甲府までを結ぶ幹線として開かれたが、まもなく中山道下諏訪しもすわ宿(現長野県下諏訪町)に至る、全長五五里のいわゆる五街道の一つとなった。このうち現在の東京都の範囲は江戸日本橋より八王子を経て小仏こぼとけ峠に至る大半が武州多摩郡の間である。開設は慶長九年(一六〇四)高井戸たかいど宿(現杉並区)が置かれており、その頃と思われる。もっとも近世の公道として開かれる以前から甲斐路・甲州道とよばれていた古い街道があり、各所に元々の街道と伝える道筋が残っていたり、また元宿のように宿の字が付いた地名がある。近世以前の領域内伝馬制の伝聞とこれらを直結することはできないが、府中から四方に通じる街道があったことは考えられよう。しかし近世の甲州道中とこれらとを関連づけるものは少ない。

開設の当初は甲州海道と表記されていたが、正徳六年(一七一六)に海端の近くを通らないという理由で、甲州道中と改められた(御触書寛保集成)。しかし法令などのほかは甲州街道という呼称が併せて用いられてきた。宿場は内藤新宿から上諏訪宿まで四五宿あり、数宿で一宿分の人馬役を勤めたり(打込勤め)、上り下りどちらかの片役しか勤めぬ宿もあって、三三宿とするなど数え方にも諸説ある。一宿の上・下が月内の人馬役を分けもつことは、他の街道でも例があるが、甲州道中の宿場にはこれがとくに多いのが特徴とされている。また内藤新宿は五街道の内で最も遅く立てられた宿場であるが、公的に設置・廃止・再開が繰返された特異な歴史をもっている。常備の人馬は各宿二五人・二五匹とされたが、臨時急用や非常用として差し引いておける御囲人馬の数が認められており、もし所要人馬が実人馬数を越えた時は助郷にこれを転嫁できた。宿場の役負担軽減のためであるが、東海道・中山道に比して通行量が少なく、また寒宿場が多かったゆえであろう。


甲州道中
こうしゆうどうちゆう

江戸時代の五街道の一つで甲州街道ともいう。江戸日本にほん橋を起点に中山道下諏訪宿(現長野県下諏訪町)まで里程五三里二町余(中山道宿村大概帳)の街道。この間の宿駅は内藤新宿ないとうしんじゆく(現東京都新宿区)から上諏訪宿(現長野県諏訪市)まで四五宿を数えるが、甲斐国内は上野原うえのはら宿(現上野原町)を東端として鶴川つるかわ野田尻のたじり犬目いぬめ(現同上)下鳥沢しもとりさわ・上鳥沢・猿橋さるはし駒橋こまはし・大月・下花咲しもはなさき・上花咲・下初狩しもはつかり・中初狩・白野しらの阿弥陀海道あみだかいどう黒野田くろのた(現大月市)駒飼こまかい鶴瀬つるせ(現大和村)勝沼かつぬま(現勝沼町)栗原くりばら(現山梨市)石和いさわ(現石和町)、甲府やなぎ(現甲府市)、韮崎(現韮崎市)だいはら(現白州町)の各宿と西端の教来石きようらいし宿(現同上)まで二五宿で、国界の東西の間は二七里ほど(甲斐国志)。国内を東西に横断する道筋は都留つる(郡内領)・八代・山梨・巨摩四郡にわたっている。当初甲州海道とよんだが、正徳六年(一七一六)五街道の呼称について幕令をもって統一がはかられて以後甲州道中と定められた(御触書寛保集成)。当道中は軍事的には江戸西方の防衛上の拠点としての甲府城を擁し、政治的には将軍の家門を城主とする幕府直轄領として推移した甲府を江戸に直結させる街道として重要な役割を担っていた。


甲州道中
こうしゆうどうちゆう

甲州海道・甲州街道ともいう。江戸日本橋を起点とする五街道の一つ。ほぼ現在の国鉄中央線沿いの行程をたどり、江戸の内藤新宿ないとうしんじゆくから甲州石和いさわまでの表街道三八駅と、甲府こうふより上諏訪かみのすわまでの裏街道六駅、合計四四駅で、下諏訪で中山道と合した。全行程五三里一〇町余(約二二〇キロ)である。

徳川家康は甲府の地を江戸防衛の要地として重視し、特にここに通ずる道を幹道として整備させた。裏街道がいつ整備されたかは明確ではない。しかし慶長一五年(一六一〇)から翌年にかけて、千野ちの(現茅野市)及び御射山神戸みさやまごうど(現富士見町)の新町立諸役免許証文が出され、これらの町は、山腹の鎌倉道筋から移転して諸役が免ぜられていることなどから、この頃に新しい道ができたと考えられる。

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百科事典マイペディア 「甲州道中」の意味・わかりやすい解説

甲州道中【こうしゅうどうちゅう】

甲州街道とも。江戸時代の五街道の一つ。狭義では江戸日本橋から内藤新宿を経て甲府までをいうが,公式にはさらに中山道に合する下諏訪までをさし,この場合宿数は数え方で諸説あるが普通44宿。交通量は比較的少なかったが,甲州が天領であったため軍事的見地から重視された。現在の国道20号線(東京〜塩尻市)に当たる。
→関連項目石和[町]上野原[町]青梅街道大木戸勝沼[町]上諏訪甲府[市]小仏峠小仏関宿村大概帳諏訪藩高井戸茶壺道中韮崎[市]八王子[市]日野[市]藤野[町]布田山梨[県]

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改訂新版 世界大百科事典 「甲州道中」の意味・わかりやすい解説

甲州道中 (こうしゅうどうちゅう)

江戸時代の五街道の一つ。1600年(慶長5)に甲斐が徳川家康の領地となって以来,江戸と甲府を結ぶ交通路として整備され,18年(元和4)に官道となった。はじめ甲府海道,甲州海道などと呼ばれたが,1716年(享保1)甲州道中と改められた。江戸日本橋を起点とし,内藤新宿,八王子,大月,勝沼,甲府柳町,韮崎(にらさき)など45の宿場と小仏関,鶴瀬関を経て,下諏訪で中山道に合流し,里程およそ55里(約220km)である。甲斐は24年以降,ほとんど一国中が幕府直轄領となったため,甲州道中の重要性は減じることがなかったが,五街道の中では比較的交通量が少なく,参勤交代の大名も信州高遠藩などわずかに3家のみであった。しかし,江戸時代の中期以降には信濃・甲斐・江戸を結ぶ商品流通路としてしだいに活気を増し,とくに安政の開港後は甲州産生糸の輸送路として使われるなど,大きな役割を果たした。
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山川 日本史小辞典 改訂新版 「甲州道中」の解説

甲州道中
こうしゅうどうちゅう

江戸時代の五街道の一つ。江戸日本橋から八王子・甲府・上諏訪をへて,下諏訪で中山道と合流する。戦国大名により伝馬制がしかれた。慶長年間,大久保長安が代官屋敷をおいた八王子と江戸を結ぶ街道が整備され,郡内(ぐんない)(現,山梨県の旧都留郡域)の山間部改修により,元和年間には宿駅制度が整った。はじめ甲州海道とよばれたが,1716年(享保元)から甲州道中の名称を使用。45宿あったが,小宿駅が多く,合宿(がっしゅく)勤めや片継ぎなどの変則的な継立てを行う宿駅が多い。大名の通行は飯田・高遠・高島3藩のみだが,甲府が幕領となったため勤番士の通行が増えた。信濃・甲斐両国からの中馬(ちゅうま)荷物の輸送路として栄え,中期以降宿駅との間で争論がおこった。

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旺文社日本史事典 三訂版 「甲州道中」の解説

甲州道中
こうしゅうどうちゅう

江戸時代,五街道の一つ
甲州街道ともいう。江戸の内藤新宿から甲府までの38宿駅。中山道と合流する下諏訪まで(6宿場)を加える用例が多い。また宿駅の数え方も諸説がある。途中,小仏に関所があった。

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「甲州道中」の意味・わかりやすい解説

甲州道中
こうしゅうどうちゅう

甲州街道

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世界大百科事典(旧版)内の甲州道中の言及

【麴町】より

…一方,麴町の北側の番町は,明治以降,高級住宅地となり,イギリス大使館などの外国公館も設けられたが,近年はオフィス・ビルがふえている。【正井 泰夫】
[歴史]
 半蔵門から西にむかう甲州道中(街道)起点部の地名で,慶長(1596‐1615)ころまで国府方(こうかた)とも呼ばれ,やがて国府路(こうじ)となり,麴の文字をあてられ麴町となる。13丁目まである細長い町で,1591年(天正19)成立し,江戸の街村集落の中で最も早く町屋になった。…

【五街道】より

…江戸幕府が直轄した主要な五つの陸上交通路。江戸を起点として四方に達する道で,東海道中山道甲州道中日光道中奥州道中をいう。名称は1716年(享保1)に幕府が公称を一定したが,民間では中山道を中仙道,木曾街(海)道といい,甲州道中を甲州街道ということも慣用された。…

※「甲州道中」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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