和智庄
わちのしよう
鎌倉期から仁和寺(現京都市右京区)領として史料上に現れる。
嘉禎四年(一二三八)の北条時房下知状案(片山文書)に次のようにみえる。
<資料は省略されています>
承久の乱後、片山広忠が当荘の新補地頭に任命されている。片山氏は武蔵片山郷(現埼玉県新座市)から来た東国御家人で、安栖里を本拠地とした。弘安年間(一二七八―八八)初期には、地頭片山左衛門入道道縁の逝去に伴い、その子息万歳丸に地頭職が継承、安堵されている(「六波羅施行状」同文書、年号不詳)。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
Sponserd by 