鎌倉時代,新たに補任した地頭の意。初めは本領安堵の地頭に対して新恩の地頭を意味した。承久の乱(1221)後には率法にもとづく得分をもって補任された地頭をいうようになる。幕府は承久の乱後に京方罪科人の所領・所職(しよしき)を奪い,新恩の地頭を補任したり,従来地頭が設置されていないところに新設したりして地頭制度の拡大を図った。その際に地頭得分に関し所務の先例がある場合はこれを継承させ,よるべき先例のない場合は得分の率法を定めた。〈新補率法の地頭〉としての新補地頭はこれを指す。新補率法の得分内容は(1)田畠11町別に1町ずつの地頭給田畠,(2)1段ごとに5升ずつの加徴米,(3)その他,山野河海の所出はこれを領家・国司と地頭とで折半,犯科人跡は領家方が3分の2,地頭方が3分の1などというものであった。一般に給田畠ならびに加徴米は,定田畠(じようでんぱく)(荘園領主の課税対象になる田畠)の員数についての割合で正税官物よりこれを募った。また山野河海の所出については本年貢たるものを除いた残りを半分の沙汰とした。鎌倉末期になると概念が混乱し,《沙汰未練書》では〈承久兵乱の時,没収の地をもって宛給所領等の事なり〉と規定されている。これによれば新補地頭とは承久の乱後の恩賞として補任された地頭すべての呼称とされ,新補地頭の概念が拡大されていることがわかる。この場合,承久の乱前に補任された地頭のことは本補地頭と呼んで新補地頭と区別した。
執筆者:関 幸彦
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1221年(承久3)の承久(じょうきゅう)の乱ののち、勝利した鎌倉幕府が敗北した朝廷側(京方)から没収した膨大な所領に新しく補置した地頭。その所職(しょしき)や得分(とくぶん)の内容は、在来地頭や下司(げし)が置かれていた所ではそれを継承し、それのない所では一律に11町ごとに1町の給田(きゅうでん)、反別(たんべつ)5升の加徴米、山野河海所出物(さんやかがいしょしゅつぶつ)の国司領家(こくしりょうけ)との折半、犯罪人跡所領3分の1の収得、下地進退(したじしんたい)の禁止などの規準(率法(りっぽう))を定めた。したがって厳密には後者を新補率法地頭とよぶが、のち地頭の支配の拡大に伴ってその差異はしだいに有名無実化した。
[義江彰夫]
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承久の乱(1221)後に任じられた地頭。乱後,鎌倉幕府は京方から3000余カ所の所領を没収,そこに新たに地頭を任命した。ほとんどが西国に分布し,地頭の多くは東国の御家人であった。彼らの得分は,前任の地頭・下司のものを継承するのが原則だったが,少ない場合や先例のない場合には新補率法によった。得分を新補率法による地頭のことを,とくに新補率法地頭,あるいはたんに新補地頭とよぶこともあった。
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…これには平家没官領や承久の乱における3000余ヵ所の没収地,そのほか畠山,和田,三浦,安達など族滅された諸氏の所領,さらには一般犯罪人跡などが対象とされた。(3)については,承久の乱後に制定された率法に基づく得分を内容とする新補地頭(新補率法地頭)とそれ以外の本補地頭ということになる。ただしかかる本補・新補の区別は時代が下るにつれ混乱し,鎌倉末期の《沙汰未練書》などには〈承久兵乱の時,没収の地をもって宛給所領等の事なり〉とあり,承久の乱後に設置された地頭をすべて新補地頭とする観念が一般化する。…
…寄船はしばしば貴重な財であったから,その取得をめぐって紛争の起こることが多い。発見者,救出者が慣習的にその取得の権利を有したが,新補地頭は海業得分の一つとして寄船の取得権を公認されている。また紛争回避の意味もあってか,社寺に寄進される例が多い。…
※「新補地頭」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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