日本歴史地名大系 「本庄村」の解説
本庄村
ほんじようむら
- 広島県:三原市
- 本庄村
古代には山陽道が当地を通過したと考えられ、平安時代末期には
本庄村
ほんじようむら
現国富町の中心部に位置し、東流する本庄川の北部台地に立地する。中央部を
本庄村
ほんじようむら
中世の城跡として木之庄との境に
本庄村
ほんじようむら
本庄村
ほんじようむら
- 熊本県:熊本市
- 本庄村
東は九品寺村、西は
本庄村
ほんじようむら
本庄村
ほんじようむら
本庄村
ほんじようむら
- 大分県:杵築市
- 本庄村
本庄村
ほんじようむら
本庄村
ほんじようむら
本庄村
ほんじようむら
本庄村
ほんじようむら
本庄村
ほんじよむら
本庄村
ほんじようむら
- 徳島県:阿南市
- 本庄村
本庄村
ほんじようむら
本庄村
ほんじようむら
本庄村
ほんじようむら
本庄村
ほんじようむら
本庄村
ほんじようむら
本庄村
ほんじようむら
神通川下流左岸の低地に位置する。南は
本庄村
ほんじようむら
- 愛知県:小牧市
- 本庄村
南は
「徇行記」によれば田は五七町四反四畝余、畑は七町余で概高七七一石余のうち六五一石余が藩士一六人の給知。水利の面では、
本庄村
ほんじようむら
本庄村
ほんじよむら
本庄村
ほんじようむら
- 滋賀県:長浜市
- 本庄村
本庄村
ほんじようむら
現東灘区南東部・芦屋市南部に比定される。正和四年(一三一五)一一月の兵庫島(現兵庫区)の関所をめぐる六波羅北方探題北条時敦の使い襲撃事件では本庄の入道五郎・大蔵丞ら八名が逮捕されており、両人には悪党関所と注記されている(同年一一月日「籠置悪党交名注進状案」東大寺文書)。応仁の乱では西軍方の大内政弘は上洛のため応仁元年(一四六七)七月兵庫津に上陸し、八月三日に本庄山で細川軍と交戦した(同年一〇月一〇日「大内政弘感状」三浦家文書)。永正八年(一五一一)五月
本庄村
ほんじようむら
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報