土沢城跡(読み)つちざわじようあと

日本歴史地名大系 「土沢城跡」の解説

土沢城跡
つちざわじようあと

[現在地名]東和町土沢

さるいし川を南方眼下に望む台地上に築かれた平山城。慶長五年(一六〇〇)伊達氏が背後で援助したとされる和賀稗貫一揆の鎮圧後、同一七年盛岡藩二代藩主南部利直は仙台藩領との境界防備を強固にするため十二じゆうにヶ村土沢に土沢城を構築し、江刺長作隆直を配置した。江刺氏は隆直の祖父重恒が、天正一八年(一五九〇)まで岩谷堂いわやどう(現江刺市)城主であったが、豊臣秀吉奥羽仕置により没落し、南部領境の田瀬たせ村に潜居。翌一九年南部氏に登用され、稗貫ひえぬき新堀にいぼり(現石鳥谷町)に九一四石余、和賀郡黒沢尻くろさわじり(現北上市)で四四八石余、田瀬村で一二八石余、計一千五〇〇石の知行地を与えられていた(九月二五日「南部信直知行宛行状」宝翰類聚)

城地の縄張り・構築は盛岡藩士野田内匠直盛が奉行となって行った(邦内郷村志)。土沢は遠野街道と上小山田かみおやまだ村・下小山田村へ至る道の分岐点で、交通上の要地である。元和二年(一六一六)安俵あひようもと町の町屋敷が当城地に移転され、宿駅が設けられ町場が形成された。正保二年(一六四五)町場から出火し、当城の城主居館をはじめとして、他の館も焼失した(「江州屋書留覚帳」東和町史)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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