和賀郡(読み)わがぐん

日本歴史地名大系 「和賀郡」の解説

和賀郡
わがぐん

面積:一〇四二・八八平方キロ
東和とうわ町・江釣子えづりこ村・和賀わが町・湯田ゆだ町・沢内さわうち

県のやや南部、北上盆地の中央部に位置する。北上市と花巻市により東部の東和町と西部の江釣子村・和賀町・湯田町・沢内村とに分断されている。東和町は北上高地の支脈に囲まれたさるいし川の流域にあり、東は上閉伊かみへい宮守みやもり村・遠野市、西は花巻市、西から南にかけ北上市、南は江刺市、北は稗貫ひえぬき石鳥谷いしどりや町、北から東にかけて同郡大迫おおはさま町に接する。西部の四ヵ町村は和賀川流域にあり、西端の湯田町・沢内村は奥羽山脈とその支脈の中の小盆地に立地。東は北上市・花巻市、西は秋田県雄勝おがち東成瀬ひがしなるせ村・同県平鹿ひらか山内さんない村・同県仙北せんぼく六郷ろくごう町、南は胆沢いさわかねさき町・胆沢町、北は岩手郡雫石しずくいし町。

〔原始・古代〕

旧石器時代遺跡として湯田町大台野おおだいの遺跡・野々宿ののしゆく遺跡、和賀町和賀仙人わがせんにん遺跡など八ヵ所が確認されている。縄文時代前期・中期の遺跡は和賀町うめ遺跡・江釣子鳩岡崎はとおかざき遺跡が調査されている。後期・晩期遺跡は江釣子村猫谷地ねこやち遺跡・東和町石鳩岡いしはとおか遺跡がある。晩期土器の出土遺跡としては江釣子村芦萱よしかや遺跡・沢内村持田もちた遺跡・和賀町田代たしろ遺跡などがある。弥生時代遺跡として和賀町念仏車ねんぶつぐるま遺跡・江釣子村蔵屋敷くらやしき遺跡がある(両者は別名だが、境界にある同一遺跡)

和賀川流域に多数の円墳が築造されており、県内屈指の古墳地帯である。江釣子村八幡はちまん・猫谷地・五条丸ごじようまる、和賀町長沼ながぬま江釣子古墳群などがある。奈良時代以前の集落は、猫谷地遺跡から検出されている。平安時代では和賀町梅ノ木遺跡・久田きゆうでん遺跡、江釣子鳩岡崎遺跡・新平につぺい遺跡などがある。「続日本紀」天平九年(七三七)四月一四日条に「差帰服狄和我君計安塁、遣山道」とみえ、律令国家の支配下に入る以前の和賀地方の首長であったとみられる和我君がみえる。同書延暦八年(七八九)六月九日条に「胆沢之地、賊奴奥区(中略)子波、和我僻在深奥」とみえ、当時胆沢とよばれた地域に含まれていた。「日本後紀」延暦二三年五月一〇日条に、志波しわ(現盛岡市)胆沢郡との間に一駅を置くとある。これは「延喜式」兵部省の陸奥国駅馬条に「陸奥国駅馬(中略)胆沢、磐基各五疋」とある磐基いわき駅に比定され、江釣子村新平遺跡が擬定地とされている。

和賀郡は「日本後紀」弘仁二年(八一一)一月一一日条に「於陸奥国、置和我、縫、斯波三郡」とあり、この時に建郡された。しかし「延喜式」には和賀郡はみえない。同書神名帳の胆沢郡七座のなかに「和我叡登挙神社」がみえる。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報