下小山田村(読み)しもおやまだむら

日本歴史地名大系 「下小山田村」の解説

下小山田村
しもおやまだむら

[現在地名]東和町下小山田前田まえだ

十二じゆうにヶ村の北に位置し、さるいし川中流の北方台地上に立地。村内を北上川支流添市そいち川・きぬ川が西流し、流域平地が開けている。建久八年(一一九七)小原氏の祖藤六が小山田郷ほか六郷を与えられ、牧畜の任に当たったという(「安俵小原系図」菊池文書)。一説に小山田郷はもと稗貫ひえぬき郡で、稗貫氏一族が小山田姓を名乗り当地を領したともいう(東和町史)。「邦内郷村志」も当地をかつては稗貫郡に属したと記す。室町時代以降は和賀氏領になり、家臣小山田氏が本拠地としたとみられる。天正九年(一五八一)一月の和賀氏分限録(小田島家記録写)の城持衆二六人のうちに「八反清水五郎左衛門、小山田館居住、高知八家の一、百五十石」とみえる。なお小山田館は上小山田村宿しゆくにあったとされる。

慶長一七年(一六一二)五月二五日の南部利直知行宛行状(北文書)によれば、検地の結果給地不足により「小山田之内」五石余を北九兵衛に加給している。


下小山田村
しもおやまだむら

[現在地名]町田市下小山田町・小山田桜台おやまださくらだい

図師ずし村の北西にある。中世は小山田庄内で、同庄の遺称地。北条氏所領役帳に他国衆油井ゆい(大石氏領か)としてみえる「武州小山田之内四ヶ村」の一村と推定される。地内の薄井家蔵の薄井系図によれば、同家の祖薄井朝綱が新田義貞から小山田郷を賜ったとあるのは信じられないが、同系図に天文年間(一五三二―五五)当郷の薄井信治が小山田・図師野津田のづたなどの地侍らとともに落武者の乱暴を防いだとあるのは、何らかの史実の反映であろう。地内堀之内の大泉ほりのうちのだいせん寺は小山田城跡と伝える。日蓮宗寿量じゆりよう寺は竹内にあり、境内に「祥世・応永甲午」(応永二一年)と刻んだ宝篋印塔があり、寺域は旧仏教系の古寺の跡であろう。弘治三年(一五五七)当地の地侍竹内久成が日全を開山として創建したと伝える。


下小山田村
しもおやまだむら

[現在地名]須賀川市下小山田

小倉おぐら村の南西、阿武隈川東岸、阿武隈高地西縁に立地。須賀川宿から上小山田村を経て四辻よつつじ新田村(現玉川村)への道が通り、道沿いに集落が点在。村名は古代の磐瀬いわせ郡山田郷(和名抄)の遺称との説がある。天正一七年(一五八九)一一月二〇日の伊達政宗充行状写(伊達家文書)に「下小山田三百五十貫文之所」とみえ、二階堂氏旧臣守屋筑後守(俊重)に与えている。文禄三年(一五九四)の蒲生領高目録に「小山田」とみえ、高一千二二七石余、安長三の知行地。江戸時代の領主の変遷は塩田しおだ村と同じ。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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