城連寺村
じようれんじむら
[現在地名]松原市天美北二―八丁目・天美東六丁目・同八―九丁目・天美南五―六丁目
丹北郡に属し、三宅村の北西にあり、もとは西除川の右岸であった。北は大和川北岸に細長く当村域があり、東は西瓜破村(現平野区)、南は池内村。地形はおおむね平坦。南北朝の頃楠木氏の一族和田孫三郎正綱が住み、その家臣城連寺左衛門安明が陣屋を置いたと伝え、村名もこれに由来するという(「城連寺村記録」長谷川家文書)。集落の南に城堀の小字名が残る。当地西我堂の善正寺蔵の顕如絵像の銘に「文禄二年癸巳年河内国丹北郡天見郷城連寺村」とみえ、文禄三年(一五九四)の検地帳(長谷川家文書)には「河内国丹北郡冨田之内城連寺村」とある。天見郷は城連寺・芝・油上・池内、矢田部・南枯木・北枯木・住道(現東住吉区)の村々を含む阿麻美許曾神社(現同上)の氏子圏と考えられ、富田郷は城連寺・芝・油上一帯と思われる。なお、貞応三年(一二二四)頃の宣陽門院所領目録(島田文書)に「被充御祈願所御領 河内国富田庄」がみえるが、当地との関係は不詳。
文禄三年の検地帳によると反別三六町四反余・分米四六六石余、家数一五(夫役八・寺二など)。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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