朝日日本歴史人物事典 「塙忠宝」の解説
塙忠宝
生年:文化4.12.8(1808.1.5)
江戸後期の和学者。塙保己一の4男として江戸表六番町に生まれた。通称次郎,名は瑶,温故堂と号す。忠宝は大学頭林述斎 の命名。保己一の長男,次男は夭折し,3男は養子となったので,文政4(1821)年保己一の死の翌5年9月,16歳の若さで跡を嗣いだ。以後41年にわたって和学講談所を経営,『史料』『武家名目抄』『続群書類従』の編纂に努めた。晩年,老中安藤信正の委嘱により幕府が寛永以前に外国人を遇した式例を調査したが,これが廃帝の前例を調査したと誤って伝えられ,勤王家の怒りを買って,文久2(1863)年12月21日,伊藤博文,山尾庸三に襲われ,翌日死亡した。<参考文献>斎藤政雄「塙次郎(忠宝)小伝」(『温故叢誌』27号)
(飯倉洋一)
出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報