コトバンクはYahoo!辞書と技術提携しています。

山尾庸三 やまおようぞう

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

山尾庸三
やまおようぞう

[生]天保8(1837).山口
[没]1917
技術者。盲聾唖教育の先駆者として著名。山口藩士の子として生れる。文久3 (1863) 年密出国してイギリスで工業技術,造船技術を習得。明治維新後に帰国して工部省に入省。工学頭となり,御雇外国人 (技術者) の招聘や工業技術者の養成に尽力した。工部卿となってのち,イギリス遊学中に感銘を受けた盲聾唖教育の推進に努め,そのための学校設立の意見書を政府に提出。一方,民間団体「楽善会」に参加,訓盲院の設立にかかわった。その後この学校が経営困難に陥ると文部省への移管に努め,1887年官立東京盲唖学校として日本の指導的な盲聾唖教育機関とした。また,楽善会会長としても盲聾唖教育の発展に尽力した。

出典|ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について | 情報

デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説

山尾庸三 やまお-ようぞう

1837-1917 幕末-明治時代の武士,官僚。
天保(てんぽう)8年10月8日生まれ。長門(ながと)(山口県)萩(はぎ)藩士。文久3年伊藤博文らと渡英,工業をまなぶ。明治3年帰国し,工部省,工学寮の設立にかかわり,13年工部卿(きょう)。のち宮中顧問官,法制局長官。また楽善会訓盲院(現筑波大付属盲学校)の創立につくした。大正6年12月21日死去。81歳。

出典|講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plusについて | 情報 凡例

朝日日本歴史人物事典の解説

山尾庸三

没年:大正6.12.21(1917)
生年:天保8.10.8(1837.11.5)
明治期の政治家。長州(萩)藩士山尾忠治郎の次男。周防国(山口県)小郡に生まれ,吉田松陰らに学ぶ。嘉永5(1852)年江戸に上り,文久1(1861)年には幕臣北岡健三郎と共にロシア領アムール川流域の査察を行う。翌2年高杉晋作らとイギリス公使館焼き打ちに参加,さらに翌3年長州の軍備強化の目的もあって,伊藤俊輔(博文),井上聞多(馨)らとイギリスに密航,ロンドンからグラスゴーに渡り,ロバート・アンド・サンズ造船所で働きながら,アンダーソン・カレッジにも通う。 明治3(1870)年帰国後は新政府の横浜造船所の責任者となり,同年工部省の創設にかかわり,また国家建設のために工学教育の重要性を力説して,4年に工部寮を設立,自らその責任者となる。6年グラスゴーからダイアーを招いて工部学校,さらに10年には工部大学校とし,その教育上の指導者とした。13年には工部卿となっている。ふたりで協力して造り上げたこの工学教育機関は,世界の当時の水準を遥かに抜くもので,19年には帝大工科大学(東大工学部)となり,国家経営のための高級技術者を輩出した。日本の工学教育は山尾に負うところが大きい。その後工部省を退き,宮中顧問官,法制局長官などを歴任,20年子爵に任じられた。<参考文献>『日本工学会百年史』

(村上陽一郎)

出典|朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について | 情報

山尾庸三の関連キーワードサン・ジョヴァンニおもなお雇い外国人サン=ジョバンニ長州ファイブ江木千之明治時代塙忠宝井上勝幕末武士官僚

今日のキーワード

分水嶺

1 分水界になっている山稜(さんりょう)。分水山脈。2 《1が、雨水が異なる水系に分かれる場所であることから》物事の方向性が決まる分かれ目のたとえ。...

続きを読む

コトバンク for iPhone

コトバンク for Android

山尾庸三の関連情報