山尾庸三(読み)ヤマオ ヨウゾウ

新訂 政治家人名事典 明治~昭和 「山尾庸三」の解説

山尾 庸三
ヤマオ ヨウゾウ


肩書
工部卿,法制局長官,宮中顧問官

別名
変名=山尾 要蔵

生年月日
天保8年10月8日(1837年)

出生地
周防国吉敷郡二島村長浜(山口県山口市)

経歴
長州藩士の子に生まれ、吉田松陰らに学ぶ。嘉永5年江戸に上り、文久元年幕府の船でロシア領アムール地方に渡航。2年品川御殿山の外国公使館焼打ちに参加。3年伊藤博文らと渡英グラスゴーで造船技術の見習い工として工業技術を学んだ。明治3年帰国。横浜造船所責任者となり、同年工部省創設に関わり、4年工部寮(のちの工部学校 工部大学校)を設立、その責任者となる。民部権大丞、工部大輔などを経て、13年工部卿に就任。以後、参事院議官、同副議長、宮中顧問官、法制局長官、有栖川宮、北白川宮各別当を歴任。21〜31年臨時建築局総裁を務めた。20年子爵。

受賞
勲一等桐花大綬章

没年月日
大正6年12月22日

出典 日外アソシエーツ「新訂 政治家人名事典 明治~昭和」(2003年刊)新訂 政治家人名事典 明治~昭和について 情報

朝日日本歴史人物事典 「山尾庸三」の解説

山尾庸三

没年:大正6.12.21(1917)
生年:天保8.10.8(1837.11.5)
明治期の政治家。長州(萩)藩士山尾忠治郎の次男。周防国(山口県)小郡に生まれ,吉田松陰らに学ぶ。嘉永5(1852)年江戸に上り,文久1(1861)年には幕臣北岡健三郎と共にロシア領アムール川流域の査察を行う。翌2年高杉晋作らとイギリス公使館焼き打ちに参加,さらに翌3年長州の軍備強化の目的もあって,伊藤俊輔(博文),井上聞多(馨)らとイギリスに密航,ロンドンからグラスゴーに渡り,ロバート・アンド・サンズ造船所で働きながら,アンダーソン・カレッジにも通う。 明治3(1870)年帰国後は新政府の横浜造船所の責任者となり,同年工部省の創設にかかわり,また国家建設のために工学教育の重要性を力説して,4年に工部寮を設立,自らその責任者となる。6年グラスゴーからダイアーを招いて工部学校,さらに10年には工部大学校とし,その教育上の指導者とした。13年には工部卿となっている。ふたりで協力して造り上げたこの工学教育機関は,世界の当時の水準を遥かに抜くもので,19年には帝大工科大学(東大工学部)となり,国家経営のための高級技術者を輩出した。日本の工学教育は山尾に負うところが大きい。その後工部省を退き,宮中顧問官,法制局長官などを歴任,20年子爵に任じられた。<参考文献>『日本工学会百年史』

(村上陽一郎)

出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「山尾庸三」の意味・わかりやすい解説

山尾庸三
やまおようぞう

[生]天保8(1837).山口
[没]1917
技術者。盲聾唖教育の先駆者として著名。山口藩士の子として生れる。文久3 (1863) 年密出国してイギリスで工業技術,造船技術を習得。明治維新後に帰国して工部省に入省。工学頭となり,御雇外国人 (技術者) の招聘や工業技術者の養成に尽力した。工部卿となってのち,イギリス遊学中に感銘を受けた盲聾唖教育の推進に努め,そのための学校設立の意見書を政府に提出。一方,民間団体「楽善会」に参加,訓盲院の設立にかかわった。その後この学校が経営困難に陥ると文部省への移管に努め,1887年官立東京盲唖学校として日本の指導的な盲聾唖教育機関とした。また,楽善会会長としても盲聾唖教育の発展に尽力した。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「山尾庸三」の解説

山尾庸三 やまお-ようぞう

1837-1917 幕末-明治時代の武士,官僚。
天保(てんぽう)8年10月8日生まれ。長門(ながと)(山口県)萩(はぎ)藩士。文久3年伊藤博文らと渡英,工業をまなぶ。明治3年帰国し,工部省,工学寮の設立にかかわり,13年工部卿(きょう)。のち宮中顧問官,法制局長官。また楽善会訓盲院(現筑波大付属盲学校)の創立につくした。大正6年12月21日死去。81歳。

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