塙保己一(読み)ハナワホキイチ

デジタル大辞泉 「塙保己一」の意味・読み・例文・類語

はなわ‐ほきいち〔はなは‐〕【塙保己一】

[1746~1821]江戸後期の国学者。武蔵の人。幼名、寅之助。号、温故堂。7歳で失明。のち、江戸に出て賀茂真淵かものまぶちらに学び、抜群の記憶力により和漢の学に通暁。幕府の保護下に和学講談所を建て、晩年、総検校けんぎょうとなる。「群書類従」を編纂。著「武家名目抄」「花咲松はなさくまつ」など。

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精選版 日本国語大辞典 「塙保己一」の意味・読み・例文・類語

はなわ‐ほきいち【塙保己一】

  1. 江戸後期の国学者。幼名寅之助。号は水母子。家号は温古堂。武蔵国保木野村(埼玉県児玉町)の農家に生まれ、七歳の時に失明。一五歳で江戸に出て雨富検校須賀一の門にはいる。のち萩原宗固賀茂真淵らに国学を学ぶ。天明三年(一七八三)検校となり、「大日本史」などを校正。幕府保護の下に和学講談所を建て、国学の振興に努めた。また、文政二年(一八一九)「群書類従」の刊行を完成、さらに「続群書類従」の編纂に着手した。著に「武家名目抄」「螢蠅(けいよう)抄」「鶏林拾葉」「花咲松」など。延享三~文政四年(一七四六‐一八二一

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「塙保己一」の意味・わかりやすい解説

塙保己一
はなわほきいち
(1746―1822)

江戸後期の国学者。延享(えんきょう)3年5月5日生まれ。武蔵(むさし)国児玉(こだま)郡保木野(ほきの)村(埼玉県本庄(ほんじょう)市児玉町)の百姓荻野宇兵衛(おぎのうへえ)の長男。幼名寅之助(とらのすけ)。7歳、病により失明、辰之助(たつのすけ)と改称。15歳、江戸に出、雨富検校須賀一(あめとみけんぎょうすがいち)に入門、千弥と改名。翌年、須賀一の勧めで、歌学を萩原宗固(はぎわらそうこ)に、神道を川島貴林(たかしげ)に学ぶ。のち故実を山岡浚明(まつあけ)に、医学を東禅寺の孝首座(こうしゅそ)に学ぶ。18歳、保木野一と改名。24歳、宗固の勧めで賀茂真淵(まぶち)に入門。30歳から塙姓(須賀一の本姓)を称し、名も保己一と改める。34歳、各地に存する未刊の国書を叢書(そうしょ)として出版することを志し、41歳(1786)から『群書類従』(530巻1270種)の刊行を開始し、幕府の援助を得て、74歳(1819)完成する。当時の本屋は仲間以外の出版物を扱わなかったので、販売面でも苦労し、年頭には予約購読者を訪ねて挨拶(あいさつ)して回ったという話も伝わる。

 48歳(1793)江戸・表六番町和学講談所を開設し、後進の教育と、図書・史料の研究調査活動を進めた。温故堂の号は、初め松平定信(さだのぶ)が講談所に命名したもの。『大日本史』の編纂(へんさん)・校訂に協力したほか、『続群書類従』『史料』などの出版も計画したが未完成に終わる。76歳、総検校となる。著書に『花咲松(はなさくまつ)』『武家名目(みょうもく)抄』などがある。『群書類従』の版木1万7244枚は東京都渋谷区東の温故学会に、和学講談所の蔵書は国立公文書館に現蔵。文政(ぶんせい)4年9月12日没(文政5年7月9日公儀に届出)。76歳。墓は東京都新宿区若葉町の愛染院と埼玉県本庄市児玉町の竜泉寺とに現存する。本庄市には記念館があり、生家も保存されている。

[梅谷文夫]

『太田善麿著『塙保己一』(1966・吉川弘文館)』『温故学会編『塙保己一研究』(1981・ぺりかん社)』


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朝日日本歴史人物事典 「塙保己一」の解説

塙保己一

没年:文政4.9.12(1821.10.7)
生年:延享3.5.5(1746.6.23)
江戸後期の国学者。検校。幼名寅之助,辰之助。江戸へ出てから千弥,保木野一と称し,のち保己一と改める。号は水母子。家号を温古堂という。武蔵国児玉郡保木野村(埼玉県本庄市)の農家荻野宇兵衛・きよ夫婦の長男として生まれ,7歳で失明。15歳のとき江戸に出て雨富検校須賀一の門に入った。保己一は音曲や鍼,按摩の修業をしたが不器用で物にならず,むしろ強く学問を志した。雨富検校の隣人の松平乗尹の紹介で歌学者萩原宗固に入門,また垂加神道を川島貴林に,故事考証を山岡浚明に学んだ。18歳で衆分となり,21歳,父と西遊し北野天満宮を守護神と定めた。24歳,賀茂真淵に入門したが半年後に真淵は死去した。安永4(1775)年,30歳,勾当に進み須賀一の本姓を襲って塙を姓とした。8年,34歳,全国に散在する国書を収集刊行する大事業を発起し,その実現を北野天満宮に祈誓,『般若心経』百万巻読誦を発願した。38歳検校となり,同年日野資枝,閑院宮典仁親王,外山光実の門に入り,堂上歌学を学ぶ。40歳のとき立原翠軒の推薦で水戸藩主徳川治保に謁見し,のちに『大日本史』の校正に参画する。寛政5(1793)年,和学講談所と文庫創設を願い出て認められ,やがて林大学頭の支配下で幕府の財政援助を受けることになり,精力的な史料収集に拍車がかかった。 保己一の事業は国書の大叢書である『群書類従』670冊の編纂と刊行(1819),その続編である『続群書類従』の編纂,国史・律令の編纂,堂上方の家記の複本作成,六国史以後の国史の欠を史料を載録することによって補う『史料』の編纂,幕府の命じた武家に関する百科全書『武家名目抄』の編纂など,いずれも不朽の功績である。その遺業は続群書類従完成会による『続群書類従』の完結,『国史大系』による国史・律令の出版,東大史料編纂所による『大日本史料』の出版に引き継がれた。<参考文献>森銑三「物語塙保己一」(『森銑三著作集』7巻),温故学会編『塙保己一研究』

(飯倉洋一)

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改訂新版 世界大百科事典 「塙保己一」の意味・わかりやすい解説

塙保己一 (はなわほきいち)
生没年:1746-1821(延享3-文政4)

江戸後期の国学者。武蔵国児玉郡の人。旧姓荻野。通称寅之助,千弥など。名は保木野一。号は温故堂,水母子など。幼にして失明,江戸に出て雨富検校須賀一に入門し,鍼術や音曲などを修得,後年総検校となる。山岡明阿に律令,萩原宗固に歌文,さらに宗固の勧めで賀茂真淵に六国史などを学んだが,真淵は入門して半年後に没した。1779年(安永8)に《群書類従》の編纂に着手,40年を費やして本事業を完成させ,ついで続編の計画を進めた。その間,水戸の彰考館に召され,《参考源平盛衰記》や《大日本史》の校訂を委嘱された。さらに1793年(寛政5),幕府の援助を得て和学講談所を開設,国史・律令の校訂出板,また六国史以降の史料による修史事業《史料》の編纂に取り組んだ。その実証主義に貫かれた堅実な学風は,近代史学の礎を築くとともに,門下に屋代弘賢,石原正明,中山信名ら幾多の俊秀を輩出した。編著に,《花咲松》《蛍蠅抄》《武家名目抄》《鶏林拾葉》《皇親譜略》《水母文集》などがある。
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百科事典マイペディア 「塙保己一」の意味・わかりやすい解説

塙保己一【はなわほきいち】

江戸後期の国学者。総検校。幼名寅之助。号温古堂。武蔵の人。5歳で失明。江戸に出て賀茂真淵らに国学を学び,和漢の学に精通。1779年《群書類従》らの編纂(へんさん)に着手,屋代弘賢,石原正明らとともに40年を費して完成させ,続編にも着手した。1793年幕府の援助を得て,和学講談所を開き,《史料》《武家名目抄》などを編纂。
→関連項目足代弘訓児玉[町]有職故実和学講談所

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「塙保己一」の意味・わかりやすい解説

塙保己一
はなわほきいち

[生]延享3(1746).5.5. 武蔵
[没]文政4(1821).9.12. /文政5(1822).7.9. 江戸
江戸時代後期の国学者。本姓,荻野。幼名,寅之助,のち千弥,保木野一 (ほきのいち) ,さらに保己一と改めた。号,水母子,温故堂。農家に生れ,7歳で失明。 15歳のとき江戸に上り,検校雨富菅一に弦歌,鍼 (しん) 術を,萩原宗固,川島貴林,山岡浚明らに漢籍や歴史を,賀茂真淵に国学を学んだ。安永4 (1775) 年勾当,天明3 (83) 年検校に進んだ。これより先,安永8 (79) 年『群書類従』の編纂を志し,また日野資枝,外山光実に和歌を学んだ。寛政5 (93) 年江戸幕府に請願して,和学講談所を設立して『群書類従』編纂に尽力。文政1 (1818) 年完成して翌2年に正編を刊行し,同5年続編が成った。『武家名目抄』『史料』など編著多数がある。

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「塙保己一」の解説

塙保己一
はなわほきいち

1746.5.5~1821.9.12

江戸後期の国学者。父は武蔵国児玉郡保木野(ほきの)村の豪農荻野宇兵衛。通称は寅之助などをへて保己一,号は温故堂など。7歳で失明し,雨富須賀一(すがいち)に音曲・鍼医術を,萩原宗固(そうこ)・川島貴林(たかしげ)・山岡浚明(まつあけ)に歌文・神道・律令を学んだ。賀茂真淵にも短期間師事。1779年(安永8)に「群書類従」の編纂に着手し,41年後に全670冊の刊行を完了。この間,「大日本史」の校正にも参加,93年(寛政5)には和学講談所を設立。六国史以後の史料を集めた「史料」の編纂により,のちの「大日本史料」の先駆的業績も残した。その堅実な考証は近代史学につながるものと評される。1821年(文政4)総検校。ほかに編纂書は「武家名目抄」「鶏林拾葉」。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「塙保己一」の解説

塙保己一 はなわ-ほきいち

1746-1821 江戸時代中期-後期の国学者。
延享3年5月5日生まれ。7歳で失明し,検校(けんぎょう)雨富須賀一に入門。歌を萩原宗固,故実を山岡浚明(まつあけ),国学を賀茂真淵(かもの-まぶち)にまなぶ。寛政5年(1793)和学講談所を開設し,「群書類従」「武家名目抄」などを編集した。総検校。文政4年9月12日死去。76歳。武蔵(むさし)児玉郡(埼玉県)出身。本姓は荻野。通称は千弥,保木野一。号は水母子,温古堂。
【格言など】言の葉のおよばぬ身には目に見ぬもなかなかよしや雪のふじの根

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旺文社日本史事典 三訂版 「塙保己一」の解説

塙保己一
はなわほきいち

1746〜1821
江戸中・後期の国学者・文献学者
号は温故堂。武蔵(埼玉県)保木野村の農家に生まれ,5歳のときに失明。学問に志し,国学・儒学・神道・医学を学び,賀茂真淵 (まぶち) の門に入った。1793年幕府に願い出て和学講談所を設立し,屋代弘賢 (やしろひろかた) らを育成した。『群書類従』を完成,『続群書類従』編集途上没した。ほかに『武家名目抄』など。

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367日誕生日大事典 「塙保己一」の解説

塙保己一 (はなわほきいち)

生年月日:1746年5月5日
江戸時代中期;後期の国学者
1821年没

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