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塙保己一 はなわ ほきいち

美術人名辞典の解説

塙保己一

国学者。通称寅之助・辰之助・多門房・千弥、名は保木野一、号は温故堂・水母子。七才で失明。歌を萩原宗固国学賀茂真淵山岡明阿弥に学ぶ。勾当検校和学講談所教授を務め、『群書類従』『武家名目抄稿』等の編纂事業に携わった。著書に『花咲松』『松山集』等がある。文政4年(1821)歿、76才。

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朝日新聞掲載「キーワード」の解説

塙保己一

1746年、児玉郡保木野(ほきの)村(現在の本庄市児玉町)で生まれた。7歳で失明し、15歳で江戸に出て国学などを学び、文献集「群書類従」を編集したことで知られる。女性医師・荻野吟子、実業家・渋沢栄一とあわせて「埼玉3偉人」と言われる。

(2009-03-13 朝日新聞 朝刊 埼玉 1地方)

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デジタル大辞泉の解説

はなわ‐ほきいち〔はなは‐〕【塙保己一】

[1746~1821]江戸後期国学者武蔵の人。幼名、寅之助。号、温故堂。7歳で失明。のち、江戸に出て賀茂真淵(かものまぶち)らに学び、抜群の記憶力により和漢の学に通暁。幕府の保護下に和学講談所を建て、晩年、総検校(けんぎょう)となる。「群書類従」を編纂。著「武家名目抄」「花咲松(はなさくまつ)」など。

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百科事典マイペディアの解説

塙保己一【はなわほきいち】

江戸後期の国学者。総検校。幼名寅之助。号温古堂。武蔵の人。5歳で失明。江戸に出て賀茂真淵らに国学を学び,和漢の学に精通。1779年《群書類従》らの編纂(へんさん)に着手,屋代弘賢石原正明らとともに40年を費して完成させ,続編にも着手した。
→関連項目足代弘訓児玉[町]有職故実和学講談所

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デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説

塙保己一 はなわ-ほきいち

1746-1821 江戸時代中期-後期の国学者。
延享3年5月5日生まれ。7歳で失明し,検校(けんぎょう)雨富須賀一に入門。歌を萩原宗固,故実を山岡浚明(まつあけ),国学を賀茂真淵(かもの-まぶち)にまなぶ。寛政5年(1793)和学講談所を開設し,「群書類従」「武家名目抄」などを編集した。総検校。文政4年9月12日死去。76歳。武蔵(むさし)児玉郡(埼玉県)出身。本姓は荻野。通称は千弥,保木野一。号は水母子,温古堂。
【格言など】言の葉のおよばぬ身には目に見ぬもなかなかよしや雪のふじの根

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朝日日本歴史人物事典の解説

塙保己一

没年:文政4.9.12(1821.10.7)
生年:延享3.5.5(1746.6.23)
江戸後期の国学者。検校。幼名寅之助,辰之助。江戸へ出てから千弥,保木野一と称し,のち保己一と改める。号は水母子。家号を温古堂という。武蔵国児玉郡保木野村(埼玉県本庄市)の農家荻野宇兵衛・きよ夫婦の長男として生まれ,7歳で失明。15歳のとき江戸に出て雨富検校須賀一の門に入った。保己一は音曲や鍼,按摩の修業をしたが不器用で物にならず,むしろ強く学問を志した。雨富検校の隣人の松平乗尹の紹介で歌学者萩原宗固に入門,また垂加神道を川島貴林に,故事考証を山岡浚明に学んだ。18歳で衆分となり,21歳,父と西遊し北野天満宮を守護神と定めた。24歳,賀茂真淵に入門したが半年後に真淵は死去した。安永4(1775)年,30歳,勾当に進み須賀一の本姓を襲って塙を姓とした。8年,34歳,全国に散在する国書を収集刊行する大事業を発起し,その実現を北野天満宮に祈誓,『般若心経』百万巻読誦を発願した。38歳検校となり,同年日野資枝,閑院宮典仁親王,外山光実の門に入り,堂上歌学を学ぶ。40歳のとき立原翠軒の推薦で水戸藩主徳川治保に謁見し,のちに『大日本史』の校正に参画する。寛政5(1793)年,和学講談所と文庫創設を願い出て認められ,やがて林大学頭の支配下で幕府の財政援助を受けることになり,精力的な史料収集に拍車がかかった。 保己一の事業は国書の大叢書である『群書類従』670冊の編纂と刊行(1819),その続編である『続群書類従』の編纂,国史・律令の編纂,堂上方の家記の複本作成,六国史以後の国史の欠を史料を載録することによって補う『史料』の編纂,幕府の命じた武家に関する百科全書『武家名目抄』の編纂など,いずれも不朽の功績である。その遺業は続群書類従完成会による『続群書類従』の完結,『国史大系』による国史・律令の出版,東大史料編纂所による『大日本史料』の出版に引き継がれた。<参考文献>森銑三「物語塙保己一」(『森銑三著作集』7巻),温故学会編『塙保己一研究』

(飯倉洋一)

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江戸・東京人物辞典の解説

塙保己一

1746〜1821(延享3年〜文政4年)【国学者】盲目のハンデを乗り越えた、学問への情熱。 麹町に和学講談所を設立。国学者。武蔵国の農家出身。7歳で失明。15歳で江戸に出て、最初は鍼医術などを学ぶ。学問の才を見いだされ、賀茂真淵などに師事、国学者となる。1779年から古典文学や記録など貴重な文献資料を分類、整理した『群書類従』に着手し、41年かけて全670巻刊行を終了した。この間水戸藩の『大日本史』の校正にも参画、1793年には麹町に和学講談所を設立した。

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世界大百科事典 第2版の解説

はなわほきいち【塙保己一】

1746‐1821(延享3‐文政4)
江戸後期の国学者。武蔵国児玉郡の人。旧姓荻野。通称寅之助,千弥など。名は保木野一。号は温故堂,水母子など。幼にして失明,江戸に出て雨富検校須賀一に入門し,鍼術や音曲などを修得,後年総検校となる。山岡明阿に律令,萩原宗固に歌文,さらに宗固の勧めで賀茂真淵に六国史などを学んだが,真淵は入門して半年後に没した。1779年(安永8)に《群書類従》の編纂に着手,40年を費やして本事業を完成させ,ついで続編の計画を進めた。

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大辞林 第三版の解説

はなわほきのいち【塙保己一】

1746~1821) 江戸後期の和学者。武蔵児玉郡の人。旧姓、荻野。号は温古堂。幼くして失明、一五歳で江戸に出て雨富検校に入門。のち国学を賀茂真淵らに学ぶ。和漢の学に精通。検校となり、幕府保護の下、和学講談所を建て和学の振興に努めた。1819年、「群書類従」刊行を終え、さらに「続群書類従」の編纂へんさんに着手。著「武家名目抄」「蛍蠅抄」など。

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

塙保己一
はなわほきいち

[生]延享3(1746).5.5. 武蔵
[没]文政4(1821).9.12. /文政5(1822).7.9. 江戸
江戸時代後期の国学者。本姓,荻野。幼名,寅之助,のち千弥,保木野一 (ほきのいち) ,さらに保己一と改めた。号,水母子,温故堂。農家に生れ,7歳で失明。 15歳のとき江戸に上り,検校雨富菅一に弦歌,鍼 (しん) 術を,萩原宗固,川島貴林,山岡浚明らに漢籍や歴史を,賀茂真淵に国学を学んだ。安永4 (1775) 年勾当,天明3 (83) 年検校に進んだ。これより先,安永8 (79) 年『群書類従』の編纂を志し,また日野資枝,外山光実に和歌を学んだ。寛政5 (93) 年江戸幕府に請願して,和学講談所を設立して『群書類従』編纂に尽力。文政1 (1818) 年完成して翌2年に正編を刊行し,同5年続編が成った。『武家名目抄』『史料』など編著多数がある。

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

塙保己一
はなわほきいち
(1746―1822)

江戸後期の国学者。延享(えんきょう)3年5月5日生まれ。武蔵(むさし)国児玉(こだま)郡保木野(ほきの)村(埼玉県本庄(ほんじょう)市児玉町)の百姓荻野宇兵衛(おぎのうへえ)の長男。幼名寅之助(とらのすけ)。7歳、病により失明、辰之助(たつのすけ)と改称。15歳、江戸に出、雨富検校須賀一(あめとみけんぎょうすがいち)に入門、千弥と改名。翌年、須賀一の勧めで、歌学を萩原宗固(はぎわらそうこ)に、神道を川島貴林(たかしげ)に学ぶ。のち故実を山岡浚明(まつあけ)に、医学を東禅寺の孝首座(こうしゅそ)に学ぶ。18歳、保木野一と改名。24歳、宗固の勧めで賀茂真淵(まぶち)に入門。30歳から塙姓(須賀一の本姓)を称し、名も保己一と改める。34歳、各地に存する未刊の国書を叢書(そうしょ)として出版することを志し、41歳(1786)から『群書類従』(530巻1270種)の刊行を開始し、幕府の援助を得て、74歳(1819)完成する。当時の本屋は仲間以外の出版物を扱わなかったので、販売面でも苦労し、年頭には予約購読者を訪ねて挨拶(あいさつ)して回ったという話も伝わる。
 48歳(1793)江戸・表六番町和学講談所を開設し、後進の教育と、図書・史料の研究調査活動を進めた。温故堂の号は、初め松平定信(さだのぶ)が講談所に命名したもの。『大日本史』の編纂(へんさん)・校訂に協力したほか、『続群書類従』『史料』などの出版も計画したが未完成に終わる。76歳、総検校となる。著書に『花咲松(はなさくまつ)』『武家名目(みょうもく)抄』などがある。『群書類従』の版木1万7244枚は東京都渋谷区東の温故学会に、和学講談所の蔵書は国立公文書館に現蔵。文政(ぶんせい)4年9月12日没(文政5年7月9日公儀に届出)。76歳。墓は東京都新宿区若葉町の愛染院と埼玉県本庄市児玉町の竜泉寺とに現存する。本庄市には記念館があり、生家も保存されている。[梅谷文夫]
『太田善麿著『塙保己一』(1966・吉川弘文館) ▽温故学会編『塙保己一研究』(1981・ぺりかん社)』

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367日誕生日大事典の解説

塙保己一 (はなわほきいち)

生年月日:1746年5月5日
江戸時代中期;後期の国学者
1821年没

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世界大百科事典内の塙保己一の言及

【群書類従】より

塙保己一編の叢書。正編1270種530巻666冊,続編2103種1150巻1185冊からなる日本最大の叢書。…

【児玉[町]】より

…関越自動車道本庄インターチェンジ付近の旧開拓地は工業団地となっている。塙保己一の出身地で,旧宅(史)や記念館がある。JR八高線が通じる。…

【図書館】より

…彼はまた《類聚(るいじゆう)国史》を撰しているが,これは,そのときまでに出た六国史それぞれの中から事項別に原文を抜粋し編集したもので,カード(短札)方式による知識情報の処理の最初の例ともいえる。この〈類聚〉という考え方こそ,後の塙保己一(はなわほきいち)の《群書類従》,明治政府の《古事類苑》などに通じる類書的発想,ひいては今日の情報管理の原則たる知りたい知識情報そのものへの接近を可能ならしめる工夫である索引,抄録の思想につながるものである。それはまた史料編纂所の大事業《大日本史料》編纂にも受け継がれている。…

【武家名目抄】より

…武家故実書。塙保己一(はなわほきいち)ら編。381冊。…

【和学講談所】より

…江戸時代,塙保己一の建てた,和学ことに国史律令の講究編纂を目的とした学舎。和学所ともいう。…

※「塙保己一」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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