日本歴史地名大系 「夏梅村」の解説 夏梅村なつめむら 兵庫県:養父郡大屋町夏梅村[現在地名]大屋町夏梅加保(かぼ)村の北東、大屋川の流域に位置し、大屋道が横断する。東は中(なか)村。永禄三年(一五六〇)一一月二一日付で三方大蔵丞正秀が定めた三方郷東西堺注文(三方文書)に「夏梅村」と所見し、当村と中村との境は「東ハすゝ谷上ハ中尾、北ハつきあいか谷」、当村と大屋庄との境は「東ハ打越ノたわ也、北ハすゝ谷なり」と記される。当村は大屋川沿いに中村の西側にあり、三方(みかた)郷の西端で、西は大屋庄と境を接していたことが判明する。文禄四年(一五九五)出石(いずし)(現出石町)に入った小出吉政(のち出石藩主)の所領となる。 夏梅村なつうめむら 福岡県:浮羽郡吉井町夏梅村[現在地名]吉井町江南(えなみ)筑後川中流左岸の微高地に位置し、今竹(いまたけ)村などと隣接する。本高は七〇石余(元禄国絵図)。「在方諸覚書」では古高一六〇石・役高三一六石。寛政元年(一七八九)の撫斗代八斗三升(上三郡取調手鑑)。享和二年(一八〇二)の春免高帳では高三一七石、文化四年(一八〇七)の畝付帳では本田六町四反余・開田一反余・畑田一四町五反余・畑三町五反余・居屋敷二反余。旧高旧領取調帳によると高一八二石余。当村の庄屋栗林次兵衛は大石長野(おおいしながの)水道開削を主唱した五庄屋の一人(大石長野堰渠誌)。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報 Sponserd by