大屋庄(読み)おおやのしよう

日本歴史地名大系 「大屋庄」の解説

大屋庄
おおやのしよう

現輪島市河原田かわらだ川の上・中流域一帯、現穴水あなみず町・能都のと町の各一部を含むと考えられる広域庄園。庄内一〇ヵ村として西にし(河原田保)ひがし保・南志見なじみ村・三井みい保・鳳至ふげし院・深見ふかみ保・光浦ひかりうらおよび穴水村・内浦うちうら(現穴水町)山田やまだ(現能都町)がある。古代「和名抄」の鳳至郡小屋おや郷を継承するとみられる。おやともいう。

承久三年(一二二一)九月六日の能登国田数注文の鹿島かしま郡の内に「大屋庄内穴水保」、鳳至郡の内に「大屋庄内東保」「同庄西保」とみえ、穴水保(現穴水町)は文治五年(一一八九)の立券、東保は南志見村を含む地であった。なお「華頂要略」によれば、崇徳院の菩提を弔うため阿波内侍(知足院入道公種女)とその姪大納言局の両名が京都東山に草庵を構えたが、のち後白河院の御願寺とされ、治承四年(一一八〇)四月一五日に源頼朝が「大屋十箇村」など五ヵ庄を造営料として寄進し、崇徳院御影堂が建立されたとするが、頼朝の挙兵以前であるので再考の余地がある。

大屋庄
おおやのしよう

大屋川流域の大屋市場おおやいちばより上流域、および明延あけのべ川流域に比定される尊勝そんしよう(跡地は現京都市左京区)領庄園。古代の養父郡大屋郷(和名抄)が庄園化したものと考えられ、平安後期に堀河天皇御願寺として建立された尊勝寺領として、但馬国司から寄進された可能性があるが史料を得ない。弘安八年(一二八五)の但馬国太田文には「大屋庄 四十四町五反五百歩」とみえ、「尊勝寺領」「領家右大将家」「預所越中都(維カ)那」「下司三方権守清行」の注記があるが、庄田内訳の記載はない。領家の右大将家は鎌倉時代の幕府関係の文書では源頼朝をさす場合が多いが、弘安当時も将軍家であったのかどうか確証はない。下司の三方権守清行は日下部系図(養父町史)によれば日下部一族で、三方紙工みかたかみく地頭と推定されている三方新大夫清村、朝来あさご上田うえだ庄下司三方行高兄弟の父にあたる。

大屋庄
おおやのしよう

古代の大屋郷(和名抄)の地に立荘されたと思われ、近世の大屋村を中心とする地域に比定される。嘉元四年(一三〇六)六月一二日付昭慶門院御領目録(竹内文平氏所蔵文書)に京都浄金剛院領として、「越前国大屋庄仙洞御沙汰寺用在別帋」とみえる。こののち興福寺領となったと思われ、御挙状等執筆引付(大乗院文書)の観応元年(一三五〇)九月一八日条に足羽あすわ安原やすはら(現福井市)とともに荘名がみえる。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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