多品治(読み)おおのほんじ

朝日日本歴史人物事典 「多品治」の解説

多品治

生年生没年不詳
壬申の乱(672)で大海人皇子(のちの天武天皇)側の武将として活躍。姓は臣。父は蒋敷。『古事記』の選者太安万侶を品治の子とする説がある。壬申の乱勃発時,品治は美濃国安八磨郡の湯沐令(湯沐は東宮大海人皇子の食封のひとつ)であった。大海人はまず同郡の兵を動かそうとして品治に命令を発した。紀阿閉麻呂などと共に数万の兵を率いて,伊勢(三重県)から倭に入り,軍営を襲った近江軍を破るなどの武勲をたてた。以後天武・持統両朝に仕え,天武12(683)年には,天下を巡行して諸国境界を定めるなどの事績を残している。翌年,朝臣の姓を賜り,持統10(696)年には,壬申の乱の功により直広壱(正四位下)を与えられている。<参考文献>直木孝次郎『壬申の乱』

(狩野久)

出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報

デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「多品治」の解説

多品治 おおの-ほむち

?-? 飛鳥(あすか)時代の官吏
壬申(じんしん)の乱がおきたとき,美濃(みの)(岐阜県)安八磨(あはちま)郡の湯沐令(ゆのうながし)(東宮領の役人)の地位にあり,大海人(おおあまの)皇子(のちの天武天皇)の命により不破(ふわ)の道をふさぎ,皇子をむかえた。天武天皇12年(683)伊勢王らと諸国をめぐって国の境界をさだめた。

出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plusについて 情報 | 凡例

世界大百科事典(旧版)内の多品治の言及

【多氏】より

…また後に863年(貞観5)に臣姓より宿禰(すくね)に改められた者もある。有名な人物としては,壬申の乱で大海人皇子(おおあまのおうじ)方について活躍した多品治,《古事記》を編纂した太安麻呂,813年(弘仁4)の《日本書紀》講読の講師をつとめた多人長などがいる。のち平安時代以後宮廷の雅楽をつかさどる楽家として重きをなした。…

【太安麻呂】より

…安万侶とも記す。壬申の乱に天武天皇側で活躍した武将多品治(おおのほむじ)の子という伝えもある。《続日本紀》によれば,704年(慶雲1)従五位下,711年(和銅4)正五位上,715年(霊亀1)従四位下に叙せられ,翌年氏長となった。…

※「多品治」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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