コトバンクはYahoo!辞書と技術提携しています。

天武天皇 てんむてんのう

7件 の用語解説(天武天皇の意味・用語解説を検索)

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

天武天皇
てんむてんのう

[生]?
[没]朱鳥1(686).9.9. 大和,飛鳥
第 40代の天皇 (在位 673~686) 。生年は明らかでないが,舒明3 (631) 年説が有力である。名は大海人皇子 (おおあまのおうじ) 。舒明天皇の第3皇子。母は皇極 (斉明) 天皇。天智天皇の弟。

本文は出典元の記述の一部を掲載しています。

出典|ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典
Copyright (c) 2014 Britannica Japan Co., Ltd. All rights reserved.
それぞれの記述は執筆時点でのもので、常に最新の内容であることを保証するものではありません。

デジタル大辞泉の解説

てんむ‐てんのう〔‐テンワウ〕【天武天皇】

[?~686]第40代の天皇。在位673~686。舒明天皇の第3皇子。名は大海人(おおあま)。母は皇極天皇斉明天皇)。兄の天智天皇の子の大友皇子弘文天皇)が太政大臣になると皇太子の地位を去り、吉野に隠退。天智天皇没後、皇位を争って大友皇子を打倒(壬申の乱)。乱後、飛鳥浄御原宮(あすかのきよみはらのみや)で即位。八色(やくさ)の姓(かばね)の制定や国史の編纂(へんさん)などにより律令制を整備した。

出典|小学館 この辞書の凡例を見る
監修:松村明
編集委員:池上秋彦、金田弘、杉崎一雄、鈴木丹士郎、中嶋尚、林巨樹、飛田良文
編集協力:曽根脩
(C)Shogakukan Inc.
それぞれの用語は執筆時点での最新のもので、常に最新の内容であることを保証するものではありません。

百科事典マイペディアの解説

天武天皇【てんむてんのう】

7世紀後半の天皇。大海人(おおあま)皇子。舒明(じょめい)天皇の皇子で,天智(てんじ)天皇の同母弟。天智即位のとき皇太子の地位につき皇太弟(こうたいてい)と呼ばれたが,671年天智の死にあたり,天智の心が子の大友皇子にあるのを察して出家,吉野に入った。
→関連項目飛鳥岡本宮飛鳥浄御原令大王笠置寺草壁皇子光仁天皇古事記持統天皇淳仁天皇清見寺大官大寺高階氏天皇十市皇女日本書紀額田王吉野宮

出典|株式会社日立ソリューションズ・クリエイト
All Rights Reserved. Copyright (C) 2015, Hitachi Solutions Create,Ltd. ご提供する『百科事典マイペディア』は2010年5月に編集・制作したものです

デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説

天武天皇 てんむてんのう

?-686 飛鳥(あすか)時代,第40代天皇。在位673-686。
舒明(じょめい)天皇の皇子。母は宝皇女(のち皇極・斉明天皇)。天智(てんじ)天皇の同母弟。天智天皇の子大友皇子(弘文天皇)との皇位をめぐる争い(壬申(じんしん)の乱)に勝利し,飛鳥の浄御原(きよみはらの)宮で即位。天皇中心の政治の確立をめざし,飛鳥浄御原令(りょう)や八色(やくさ)の姓(かばね)などを制定した。皇后は鸕野讃良(うののさらら)皇女(持統天皇)。朱鳥元年9月9日死去。墓所は檜隈大内陵(ひのくまのおおうちのみささぎ)(奈良県明日香村)。別名は大海人(おおあまの)皇子,天渟中原瀛真人天皇(あまのぬなはらおきのまひとのすめらみこと),浄御原天皇。
【格言など】凡(およ)そ政(まつりごと)の要は軍事なり(天武天皇13年の詔)

出典|講談社 この辞書の凡例を見る
(C)Kodansha 2015.
書籍版「講談社 日本人名大辞典」をベースに、項目の追加・修正を加えたデジタルコンテンツです。この内容は2015年9月に更新作業を行った時点での情報です。時間の経過に伴い内容が異なっている場合がございます。

世界大百科事典 第2版の解説

てんむてんのう【天武天皇】

?‐686(朱鳥1)
第40代にかぞえられる天皇。在位673‐686年。いわゆる白鳳時代律令国家の形成を推進した。名は大海人(おおあま)皇子。舒明天皇の子,母は宝皇女(のちの皇極天皇),同母兄に中大兄皇子(天智天皇)がいる。生年は不明だが,天智より5歳年少の631年(舒明3)の生れとするのが通説。それに従うと大化改新のはじまる645年(大化1)には15歳で,直接の関係はなかったと思われる。しかし成長するにしたがって中大兄の政治を助けたであろう。

出典|株式会社日立ソリューションズ・クリエイト
All Rights Reserved. Copyright (C) 2015, Hitachi Solutions Create,Ltd. 収録データは1998年10月に編集製作されたものです。それぞれの用語は執筆時点での最新のもので、常に最新の内容であることを保証するものではありません。また、本文中の図・表・イラストはご提供しておりません。

大辞林 第三版の解説

てんむてんのう【天武天皇】

?~686) 日本書紀で第四〇代天皇の漢風諡号しごう673~686)。名は大海人おおあまの皇子。和風諡号は天渟中原瀛真人あまのぬなはらおきのまひと。舒明天皇第三皇子。兄、天智天皇の皇太子となったが、天皇の死に際し、吉野に退去。672年挙兵して、大友皇子を破り、飛鳥浄御原あすかきよみはらに即位。在位中、国史の撰修に着手、八色姓やくさのかばねを制定し、律令体制を推進した。 → 壬申じんしんの乱

出典|三省堂
(C) Sanseido Co.,Ltd. 編者:松村明 編 発行者:株式会社 三省堂 ※ 書籍版『大辞林第三版』の図表・付録は収録させておりません。 ※ それぞれの用語は執筆時点での最新のもので、常に最新の内容であることを保証するものではありません。

日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

天武天皇
てんむてんのう
(?―686)

第40代天皇(在位673~686)。舒明(じょめい)天皇の皇子。母はその皇后にあたる皇極(こうぎょく)天皇で、天智(てんじ)天皇の同母弟。諱(いみな)を大海人(おおあま)皇子といい、草壁(くさかべ)、大津(おおつ)、高市(たけち)、舎人(とねり)の諸皇子らの父。天皇の生涯の前半は兄の天智天皇の活躍に隠れているが、かなりの部分、行動をともにしたらしい。668年(天智天皇7)兄が即位すると(天智天皇)、皇太弟として政治を助けた。しかし天智天皇の子の大友(おおとも)皇子が成人すると、皇嗣(こうし)問題で両者は対立するに至った。671年に大友皇子は太政大臣となったが、これにより大海人皇子は政権から疎外され、両者の対立は決定的となった。この年の秋、病床に臥(ふ)した天皇は後事を大海人皇子に託そうとしたが、陰謀のあることを知った皇子は、病気全快を祈るため出家するとの名目で辞退し、吉野に引きこもった。同年末、天智天皇は近江大津宮(おうみおおつのみや)に崩じたが、翌672年6月、近江方の動きを察した皇子は、先手を打って少数の舎人らと挙兵し、鈴鹿(すずか)、不破(ふわ)の関をふさいで東国の兵を動員して戦闘に臨んだ。約1か月の戦いののち近江大津宮に攻め入り、大友皇子(弘文(こうぶん)天皇)を自殺させ勝利を得た。いわゆる壬申(じんしん)の乱である。
 673年飛鳥浄御原宮(あすかきよみはらのみや)に即位し、天智天皇の子の(うの)皇女をたてて皇后とした(後の持統(じとう)天皇)。以後、天皇権力の安定強化に力を注ぎ、律令(りつりょう)制支配の完成を目ざした。このために官人の任官昇進規定などを法令化し、豪族たちの官僚化に努めた。684年に八色(やくさ)の姓(かばね)の制を定め、皇室との親疎を規準とする身分制を設け、翌年に親王、諸王に十二階、諸臣に四十八階の位階制を設け、草壁皇子以下諸皇子に位を与え、天皇以外は位階序列のなかに位置づけた。また大化改新以来の公地公民制の実施も進められ、675年には諸氏族の部曲(かきべ)の廃止、諸王臣私有の山野の収公などの処置に出た。翌々年には諸王臣の封戸(ふこ)に対して強い統制を及ぼし、封戸の民と給主との私的な結び付きを断つ方策を実施した。
 一方、681年から開始された律令と史書の編纂(へんさん)事業は、天皇の死によって中断されたが、それぞれ後継者により継承され完成した。すなわち、令は持統天皇によって689年(持統天皇3)に『浄御原令(きよみはらりょう)』として諸官司に頒布され(律は未完成に終わった公算が大)、さらに、『大宝(たいほう)律令』として701年(大宝1)に大成されている。また史書の編纂は712年(和銅5)の『古事記』、720年(養老4)の『日本書紀』として実を結んでいる。天武天皇の政治は天智天皇のそれを継承しているが、単なる継承ではなく、天皇を頂点とする中央集権的支配体制の確立を、より徹底化、促進化したものとして注目される。686年(朱鳥1)崩ず。御陵は大和(やまと)国高市(たけち)郡(奈良県明日香(あすか)村野口字王墓)にあり、檜隈大内(ひのくまおおうち)陵という。『万葉集』に天皇の歌が四首収められているが、そのうち額田王(ぬかたのおおきみ)との間に交わされた歌(巻1―21)や、壬申の乱直前に吉野入りしたとき自己の心情を歌った歌(巻1―25)などは名高い。また同歌集に「大王(おおきみ)は神にしませば」という語句で始まり、天武天皇およびその一族をたたえた歌がみえるが、これは壬申の乱に勝利を得た天皇への畏敬(いけい)と、勝利をともに戦い抜いた天皇への親近感をこめたもので、こうした歌がその後二十数年で絶えるのは、天皇の存在がそうした畏敬や親近感から遠いものになる一方、作者たちも整然とした官人秩序のなかに身を置かざるをえなくなったからであると説かれている。[亀田隆之]
『川崎庸之著『天武天皇』(岩波新書) ▽亀田隆之著『壬申の乱』(1961・至文堂) ▽直木孝次郎著『壬申の乱』(1961・塙書房) ▽北山茂夫著『壬申の内乱』(岩波新書) ▽北山茂夫著『天武朝』(中公新書)』

出典|小学館 日本大百科全書(ニッポニカ) この辞書の凡例を見る
(C)Shogakukan Inc.
それぞれの解説は執筆時点のもので、常に最新の内容であることを保証するものではありません。

世界大百科事典内の天武天皇の言及

【飛鳥時代】より

壬申の乱である。結果は近江朝廷方が敗れて,大友皇子は自殺し,大海人皇子は大和に帰って飛鳥浄御原宮を造営し,天武天皇として即位する。天武天皇は旧豪族を抑え,皇親を重用して天皇中心の皇親政治を行い,八色の姓(やくさのかばね)の制定や飛鳥浄御原令の編纂など律令制国家の建設に努めた。…

【陰陽道】より

…白村江の戦以後,百済からの亡命や大陸留学者の帰還によって帰化人系陰陽家が多数活躍し,角福牟(ろくふくむ),僧法蔵,同行心,同道顕らが知られるが,朝廷では僧侶は還俗のうえ仕えさせたので,行心の子僧隆観は金財(たから),僧義法は大津首意毘登(おおつのおびといびと)と改めている。天武天皇はみずから天文・遁甲の術をよくしたといわれ,はじめて陰陽寮をおき占星台を興した。律令制が整備されると陰陽寮は中務省に属し祥瑞災異の判定や新都建設の地相卜占をつかさどったが,反面この方面の専門書や天文器物の私有は禁ぜられた。…

【持統天皇】より

…同年12月に天智は没し,大友皇子があとを継いだ(弘文天皇)が,翌672年(天武1)6月,大海人は反乱をおこして弘文の近江朝廷を滅ぼす。これが壬申の乱で,勝利した大海人は都を大和へかえし,673年飛鳥浄御原宮で即位し(天武天皇),持統を皇后とした。持統は《日本書紀》に〈天皇を佐けて天下を定め,(中略)言政事に及び,毗(たす)け補う所多し〉とあるように,夫天武を助けて政治をとった。…

【壬申の乱】より

…672年(天武1,壬申の年)に生じた内乱。大友皇子と大海人皇子(のちの天武天皇)とで皇位継承をめぐって争われた。大友皇子の父,大海人皇子の兄であった天智天皇は,その末年に至って,その子大友皇子を後継者とする方針にかたむき671年(天智10)には太政大臣に任命して政権の中心にすえた。…

【道教】より

…このほか,淤能碁呂(おのごろ)島に天降りました伊邪那岐・伊邪那美の2神が〈天の御柱を見立てた〉という天柱信仰,天孫邇々芸(ににぎ)命の降臨に際して天照大神が〈此れの鏡は,専(もは)ら我が御魂(みたま)として,吾が前を拝(いつ)くがごといつきまつれ〉と詔(の)りたもうたというの宗教哲学,大国主神(大穴牟遅(おおなむち)神)の妻の父として出てくる速須佐之男(はやすさのお)命の〈頭を見れば,呉公(むかで)多(さわ)なりき〉という蜈蚣(むかで)の呪術信仰などにも道教の影響が十分に考えられる。
[天武・持統朝と道教]
 以上は8世紀初めに成った日本最古の歴史書,記紀の神話伝説的記述に指摘される道教の影響であるが,これよりもさらに古く道教の神学教理の影響が看取されるのは,7世紀の後半,《古事記》の原型とされる〈帝紀〉〈旧辞〉を稗田阿礼(ひえだのあれ)に誦習させている天武天皇の治世である。すなわち天皇は684年(天武13)に〈八色(やくさ)の姓(かばね)〉を定めて,その第1位と第5位に道教の神学用語である〈真人〉と〈道師〉を用い,死後にはその諡(おくりな)に道教の神仙信仰をそのまま表す〈瀛真人(おきのまひと)〉の3字が用いられている(真人)。…

※「天武天皇」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社日立ソリューションズ・クリエイト
All Rights Reserved. Copyright (C) 2015, Hitachi Solutions Create,Ltd. 収録データは1998年10月に編集製作されたものです。それぞれの用語は執筆時点での最新のもので、常に最新の内容であることを保証するものではありません。また、本文中の図・表・イラストはご提供しておりません。

天武天皇の関連キーワード飛鳥井宋世飛鳥井頼孝飛鳥井流飛鳥川原宮飛鳥京飛鳥宮跡飛鳥の蘇大阪府羽曳野市飛鳥奈良県高市郡明日香村飛鳥飛鳥井曾衣

今日のキーワード

トランスアジア航空

台湾・台北市に本拠を置く航空会社。中国語名は復興航空。1951年、台湾初の民間航空会社として設立。83年に台湾の国産実業グループに経営移管され、組織改編を実施した。92年に国際チャーター便の運航を始め...

続きを読む

コトバンク for iPhone

天武天皇の関連情報