日本歴史地名大系 「多摩郡」の解説
多摩郡
たまぐん
- 東京都:武蔵国
- 多摩郡
武蔵国の南部に位置した郡。郡域は北西―南東方に長く、郡の北西部はほぼ多摩川の上・中流域にあたり、南東部は同川を南の郡境とした。古代から存在し、明治一一年(一八七八)の郡区町村編制法の施行により、東多摩・西多摩・南多摩・北多摩の四郡に分れて消滅。「和名抄」東急本に「太婆」、名博本に「タマ」の訓が付せられている。多麻・多磨とも書く。江戸時代の郡境は北は秩父・
〔古代〕
国分寺瓦中に「多」「王」「玉瓦」の押印八種と「多瓦」「多」の押型二種、「多」の字瓦笵二種、「玉」「多麻」「多」とヘラ書したものが検出されている。これらは多摩郡が国分寺へ献納した瓦である。「日本書紀」安閑天皇元年条に「武蔵国造笠原直使主と同族小杵と、国造を相争ひて、使主・小杵、皆名なり、年経るに決め難し、小杵、性阻くして逆ふこと有り、心高びて順ふこと無し、密に就きて援を上毛野君小熊に求む、而して使主を殺さむと謀る、使主覚りて走げ出づ、京に詣でて状を言す、朝庭臨断めたまひて、使主を以て国造とす、小杵を誅す、国造使主、悚憙懐に交ちて、黙已あること能はず、謹みて国家の為に、横渟・橘花・多氷・倉樔、四処の屯倉を置き奉る」とあり、安閑天皇の時笠原直使主と小杵が国造職をめぐり争い、朝廷の支援をうけた使主が勝利し国造職に就き
「続日本紀」神護景雲二年(七六八)六月二一日条によれば、多摩郡に隣接する橘樹郡の人飛鳥部吉志五百国が久良郡で祥瑞である白雉を捕獲し褒賞にあずかっている。吉志は渡来系の人たちで計数に明るく、五百国は多摩屯倉設定に伴いその経営にあたるため朝廷から派遣された飛鳥部吉志の後裔と見うるようである。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報