多摩郡(読み)たまぐん

日本歴史地名大系 「多摩郡」の解説

多摩郡
たまぐん

武蔵国の南部に位置した郡。郡域は北西―南東方に長く、郡の北西部はほぼ多摩川の上・中流域にあたり、南東部は同川を南の郡境とした。古代から存在し、明治一一年(一八七八)の郡区町村編制法の施行により、東多摩・西多摩・南多摩・北多摩の四郡に分れて消滅。「和名抄」東急本に「太婆」、名博本に「タマ」の訓が付せられている。多麻・多磨とも書く。江戸時代の郡境は北は秩父・高麗こま・入間・新座にいくら・豊島の各郡、東は豊島郡・荏原えばら郡、南から西は橘樹たちばな郡・都筑つづき郡および相模国津久井つくい郡・高座たかくら郡、甲斐国に接し、現在の都域のうち二三区と島嶼部を除く全域、および二三区のうちの中野区・杉並区の全域、世田谷区・練馬区の各一部にあたる。「和名抄」所載の郷は小楊おやぎ小野おの新田にうた小島こじま狛江こまえ勢多せた小川おがわ川口かわぐち石津いしつ海田あまたの一〇郷。中郡に相当。「延喜式」神名帳には多磨郡八座として阿伎留あきる神社・小野神社布多ふた天神社・大麻止乃豆乃おおまとのつの天神社・阿豆佐味あずさみ天神社・穴沢あなざわ神社・虎柏とらかしわ神社・青渭あおい神社の八社をあげる。

〔古代〕

国分寺瓦中に「多」「王」「玉瓦」の押印八種と「多瓦」「多」の押型二種、「多」の字瓦笵二種、「玉」「多麻」「多」とヘラ書したものが検出されている。これらは多摩郡が国分寺へ献納した瓦である。「日本書紀」安閑天皇元年条に「武蔵国造笠原直使主と同族小杵と、国造を相争ひて、使主・小杵、皆名なり、年経るに決め難し、小杵、性阻くして逆ふこと有り、心高びて順ふこと無し、密に就きて援を上毛野君小熊に求む、而して使主を殺さむと謀る、使主覚りて走げ出づ、京に詣でて状を言す、朝庭臨断めたまひて、使主を以て国造とす、小杵を誅す、国造使主、悚憙懐に交ちて、黙已あること能はず、謹みて国家の為に、横渟・橘花・多氷・倉樔、四処の屯倉を置き奉る」とあり、安閑天皇の時笠原直使主と小杵が国造職をめぐり争い、朝廷の支援をうけた使主が勝利し国造職に就き横渟よこぬ以下四屯倉を献上したという。四屯倉のうちの多氷たひは多末の誤記らしく、横渟はのちの横見よこみ郡、橘花たちばなは橘樹郡、倉樔くらす久良くらき郡に相当する地域である。安閑朝においてのちの多摩郡にあたる地域が屯倉とされ、朝廷の直轄領地化されたことが知られる。

「続日本紀」神護景雲二年(七六八)六月二一日条によれば、多摩郡に隣接する橘樹郡の人飛鳥部吉志五百国が久良郡で祥瑞である白雉を捕獲し褒賞にあずかっている。吉志は渡来系の人たちで計数に明るく、五百国は多摩屯倉設定に伴いその経営にあたるため朝廷から派遣された飛鳥部吉志の後裔と見うるようである。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

世界大百科事典(旧版)内の多摩郡の言及

【東京[都]】より

…年平均降水量は都心部で約1500mm,島嶼部で約3000mmである。【井内 昇】
【歴史】

[市域の発展と行政区画の変遷]
 都域はかつての武蔵国の荏原(えばら)郡,豊島(としま)郡,多摩郡の全域と足立,新座(にいざ),葛飾(かつしか)各郡の一部,および伊豆国の伊豆七島(伊豆諸島)にあたる。明治以前は江戸市内ともいうべき〈府内〉と,周辺地域の〈府外〉との境界は,江戸図において朱引線によって示されていた。…

※「多摩郡」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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