七世紀中葉以降、律令制の成立に伴って設置され、当初は東山道、のち東海道に属した。北は上野国、北東の一部は下野国、東は下総国、西から南にかけては信濃国・甲斐国・相模国に接し、南東は東京湾に臨む。古代・中世においては国境に大きな変化はなかったとみられるが、中世末から近世初期にかけて上野国・下総国との間で異動があり、下総国から編入された地域は新たに武蔵国葛飾郡となった(一部は埼玉郡に編入)。現在はおよそ北半分は埼玉県、南半分は東京都および神奈川県に属する。以下に述べる武蔵国は主として埼玉県に属する部分についてである。なお「和名抄」東急本は国名に「牟佐之」の訓を付し、「古事記」には「无邪志」、「万葉集」には「牟射志」と表記されている。
律令体制成立以前に当地域を支配していた豪族として「国造本紀」は无邪志(ムサシ)国造・胸刺(ムサシ・ムナサシ)国造・知々夫(チチブ)国造を伝えている。これらのうち无邪志国造が五世紀末から六世紀後半にかけて一〇〇メートル級の大型古墳が出現した
埼玉古墳群に属し、五世紀末の築造と推定される
「日本書紀」安閑天皇元年条に、武蔵国造の争乱記事がある。
七世紀中葉以降、律令制の成立に伴って設置され、当初は東山道、のち東海道に属した。北は上野国、北東の一部は下野国、東は下総国、西から南にかけては信濃国・甲斐国・相模国に接し、南東は東京湾に臨む。古代・中世においては国境に大きな変化はなかったとみられるが、中世末から近世初期にかけて上野国・下総国との間で移動があり、下総国から編入された地域は新たに武蔵国葛飾郡となった(一部は埼玉郡に編入)。現在はおよそ南部が東京都、南端部が神奈川県、北半分は埼玉県に属する。以下に述べる武蔵国は主として東京都に属する部分についてである。なお古くは无邪志と書き、「和名抄」東急本では「牟佐之」と訓を付している。語源について「古事記伝」では駿河・相模・武蔵の地の総称として
「国造本紀」に「无邪志国造 志賀高穴穂朝御世、出雲臣祖名二井之宇迦諸忍之神狭命十世孫兄多毛比命、定賜国造、胸刺国造 岐閇国造祖兄多毛比命児伊狭知直、定賜国造、知々夫国造 瑞籬朝御世、八意思金命十世孫知知夫彦命、定賜国造、拝祠大神」とあり、成務天皇ないし崇神天皇朝の頃无邪志・胸刺・知々夫の国造が置かれるようになったという。知々夫国造は現埼玉県秩父地方を支配したと考えられ、无邪志国造を北武蔵埼玉県方面、胸刺国造を南武蔵多摩方面の支配者と解すことがあるが、无邪志・胸刺両国造は系譜を異にするものの重複錯簡の可能性が強く、秩父方面を除く武蔵地域に置かれたのは无邪志国造のみであったとみてよい。兄多毛比命は高橋氏文に「无邪志国造上祖大多毛比」としてみえ、東国を巡守する景行天皇のために膾や煮焼物を料理して褒賞にあずかっている。崇神朝や成務朝の頃国造制が行われるようになっていたとは直ちには考えがたいが、のちの国造制に通じるような朝廷による支配制度が形成されつつあったことは認めてよいであろう。
倭五王の一人である雄略天皇朝になると現埼玉県
南は東京湾に面し、東は下総国、北は上野国、西は
「日本書紀」によれば安閑天皇元年、それまで多年笠原直使主と武蔵国造の地位を争っていた同族の小杵が、上毛野君小熊と結んで使主を殺害しようとしたため、使主は逃れて上京し朝廷に訴えた。そこで朝廷は使主を国造とし小杵を誅した。使主は大いに喜び、「横渟・橘花・多氷・倉樔」の四ヵ所の屯倉を朝廷に献上した。うち「橘花」はのち橘樹郡、「倉樔」はのち久良郡となったとされる。この記事を信ずるならば六世紀初め、現神奈川県下に含まれるもとの武蔵国の橘樹・都筑・久良三郡の大半が武蔵国造家の、おそらくは小杵の所領から朝廷の直轄領とされたことになる。「国造本紀」にはのちの武蔵国の領域にあたる地域の国造として無邪志国造・胸刺国造・知々夫国造の三つが置かれたとしている。知々夫国造はのちの秩父郡(現埼玉県)を中心とした勢力であろうが、無邪志国造と胸刺国造の併立は「日本書紀」の記事にみられる武蔵国造をめぐる対立を反映した所伝であろう。国名の初見は「日本書紀」天武天皇一三年五月一四日条で、「化来る百済の僧尼及び俗、男女并て二十三人、皆武蔵国に安置む」とみえる。律令体制の確立する過程で、従来の国造支配の領域を再編成して武蔵国がつくられていたのであろう。なお「和名抄」東急本では国名に「牟佐之」の訓を付し、「古事記」には「无邪志」、「万葉集」には「牟射志」とみえ、古くは「むざし」とよばれたらしいとする説もある。
武蔵国は大国で、「和名抄」によれば久良郡には
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
旧国名。武州。現在の東京都,埼玉県のほとんどの地域,および神奈川県の川崎市,横浜市の大部分を含む。
東海道に属する大国。久良(くらき),都筑(つつき),多麻,橘樹(たちはな),荏原(えはら),豊嶋(としま),足立(あたち),新座(にいくら),入間(いるま),高麗(こま),比企,横見,埼玉,大里,男衾(おふすま),幡羅(はら),榛沢(はんさわ),那珂,児玉,賀美,秩父の21郡からなる(《延喜式》)。初めは无邪志(むざし),胸刺(むなさし)/(むさし),知々夫(ちちぶ)の3国に分かれていた。5世紀の武蔵には,その南部の多摩川下流域に全長100m前後の大古墳がいくつかつくられたように,政治上の中心は南部にあった。埼玉県にあたる北部には,そのころ100m未満の中小古墳がつくられ,南北の間の広大な洪積台地には強大な政治勢力がいなかった。6世紀になると,北部の埼玉県行田市に埼玉(さきたま)古墳群が,また東松山市周辺に大古墳がつくられはじめ,南部の古墳は逆に中小規模にとどまるようになった。その間の変動期に稲荷山(いなりやま)古墳に副葬されたのが,辛亥(しんがい)銘(471年か)鉄剣である。6~7世紀になると,武蔵もヤマト王権の支配下に置かれるようになり,広大な地域が前記の3国に分割された。无邪志国は北部の荒川流域とみられ,その中心は埼玉古墳,およびその周辺の大古墳をつくった武蔵国造に求められる。この一族はのちに出雲国造の同族となるが,この同族に胸刺国造がいた。それは无邪志国造の重複ともされるが,おそらく多摩川流域にあった勢力で,中心はその中・下流域に求められる。これらの2国造は伝統的豪族であるが,新興の勢力に知々夫国造がいた。それは埼玉県秩父,児玉地方に領域をもつ豪族とみられ,前記の2国造とは同族関係を結んでいなかった。
7世紀の大化改新以降になると,この3国は統一されて武蔵国が成立し,国府が多摩郡(東京都府中市)に置かれた。初めは東山道に属したが,771年(宝亀2)東海道の一国とされた。平安時代の《延喜式》によると,国府から京までの行程は上り29日,下り15日で,21郡よりなり,鎌倉時代の《拾芥抄(しゆうがいしよう)》では24郡とされた。沢田吾一《奈良朝時代民政経済の数的研究》によるとその人口は13万0900と推定され,9世紀の田地は3万5574町に達した(《和名抄》)。また荒川流域の熊谷市や川越市,あるいは児玉地方には大規模な条里制のなごりがみられ,朝鮮半島からの渡来人も中部に移住して,高麗郡(埼玉県日高市,飯能市周辺),新羅(しらぎ)郡(のち新座(にいざ)郡,志木市,和光市周辺)が置かれた。10世紀に入ると律令体制も変容をみせ,平将門の乱に武蔵も巻き込まれ,一時その支配下に入った。そのころより勅旨田や勅旨牧が武蔵国内各地に置かれ始めると(秩父牧,由比牧,石川牧など),その牧や荘園,公領の管理者をもとにして,11世紀には中小武士団が生まれてきた。
執筆者:原島 礼二
1031年(長元4)に終わる平忠常の乱は南関東の諸国を荒廃させたが,忠常の父忠頼が住んでいた武蔵国もその例外ではなかった。そして1108年(天仁1)の浅間山大爆発は,上野ばかりでなく武蔵国北部一帯に大きな被害をもたらした。最近の研究によれば,この爆発は江戸時代の天明の噴火の規模をはるかに超え,浅間山と霞ヶ浦を結ぶ線を長軸としたレンズ状の地域に分厚い降灰をもたらし,これにともなう河川のはんらんとともに,利根川・荒川流域の水田はとくに深刻な影響をうけたと考えられる。この地方は12世紀になると,野与(のよ),猪俣,児玉,丹(たん),私市(きさい)などの諸党に属する多くの小武士が簇生(そうせい)し,その後の行政区画にも10世紀の《和名抄》段階との間に顕著な差異が認められる。また8世紀には西大寺領榛原(はいばら)荘が成立し,9世紀には貞観寺領弓削(ゆげ)荘,山本荘,広瀬荘などの荘園が成立しているが,これらの初期荘園はいずれもその後の史料にはまったく姿をみせず,後世に知られる30余の荘園の初見年代はいずれも12世紀以降に限られ,この時期に至って《和名抄》にみえない国衙領の新郷も史料に現れる。直接の影響はともあれ,11世紀の平忠常の乱と12世紀初頭の浅間山の大爆発は,奇しくも当国の古代と中世とを画する事件となったといえよう。
12世紀の盛んな開発,再開発の運動の中から,秩父氏,畠山氏,河越氏,江戸氏など良文流の平氏諸流や武蔵七党などに属する多くの武士団が生まれると,彼らを上から組織しようとする棟梁間の抗争も始まり,1155年(久寿2)には源義朝の子義平が叔父義賢を急襲した大倉館の合戦なども起きている。そして翌年の保元の乱ならびに平治の乱には,ここで勝利した義朝に従って多くの関東武士が京都で合戦している。このためでもあろうか,乱後に武蔵国は平家の知行国となり,武士たちは平氏のもとで京都大番役をつとめており,平家の家礼(けらい)となる者も少なくなかった。したがって1180年(治承4)8月の源頼朝挙兵時には多くの武士が平家方として行動するが,10月に頼朝が房総で再起すると,江戸重長,畠山重忠,河越重頼をはじめなだれをうって頼朝のもとに結集した。そしてここに始まる源平合戦で武蔵武士は,《平家物語》でたたえられたようなめざましい活躍ぶりをみせ,新しい所領を得て全国に拡散していった。しかしその後の北条氏の政権獲得過程では,犠牲となった武士も少なくない。1203年(建仁3)には比企能員(よしかず)が討たれて一族滅亡し,05年(元久2)には畠山重忠が討たれて,その名跡は源氏足利氏に継がれる。またその後の和田合戦や宝治合戦でも,横山党をはじめとする武蔵の武士たちが大きな打撃をうけている。
1184年(元暦1)に平賀義信が頼朝の推薦によって国守に任じられて以来,当国は関東御分国となったが,ここでは国守が守護を兼ね,国務と守護職が一体として運営されたところに特徴がある。この国守の指揮下で総検校河越氏が多くの在庁を率い,国検をはじめ管内の寺社や駅家の雑事などを処理し,検断の実務に当たった。国守は初め義信,朝雅と源氏が任じられたが,1207年(承元1)の時房以降は代々北条氏となり,執権,連署が多くこの地位にあった。そして13世紀半ば以降,北条氏家督の地位が執権と分離するようになると国務は得宗に属し,御内人(みうちびと)が留守所(るすどころ)を指揮して運営に当たるようになった。北条氏の国務運営は概して積極的であり,鎌倉街道をはじめ諸道路の改補,荒野の開発,沼堤の改修などの記事が《吾妻鏡》にみえている。とくに泰時の代に行われた榑沼(くれぬま)堤の修理と多摩川周辺の新田開発は有名で,治水,開発への熱意を知ることができる。なお1196年(建久7)に国検が行われ,1210年には大田文が作成されたが,現在には伝えられていない。
1333年(元弘3)5月,上野国新田荘で挙兵した新田義貞は,武蔵に入って久米川,分倍河原(ぶばいがわら)で戦い,一度は敗れたが,武蔵,相模,奥羽の武士の参加を得て鎌倉幕府を倒した。この分倍河原で敗れた新田軍により,8世紀建立の武蔵国国分寺は焼滅したが,その鎌倉攻めには熊谷,横山,江戸,豊島,武蔵七党など当国武士の活躍が伝えられており,倒幕が武蔵,相模,陸奥,出羽という幕府の直接基盤の武士の動向によって決定されたところに,得宗専制政治の結末をみることができる。したがって建武政権の成立後,年末に成良親王と足利直義(ただよし)の鎌倉将軍府がつくられると,武士たちは歓呼してこれを迎えた。鎌倉将軍府は陸奥将軍府と並ぶ東国10ヵ国の行政裁判機関であるが,《建武年間記》にみえる六番制の関東廂番(ひさしばん)は実務官僚,外様(とざま)有力武将および足利一門とその根本被官よりなり,現実に訴訟裁判に当たっていた。ここに得宗専制によって衰退させられた評定(ひようじよう),引付(ひきつけ)制度の復活をみることができよう。そして武蔵国は足利尊氏が国務と守護を兼務し,久良郡,足立郡などの旧北条家領も多く尊氏,直義に与えられており,鎌倉幕府時代と支配形態には基本的な変化はなかったと考えられる。
36年(延元1・建武3)の室町幕府成立後も当国は将軍知行国の伝統を保ち,執事の高(こう)一族の重茂,師冬,師直が守護をつとめ,その重臣薬師寺氏が守護代としてみえている。51年(正平6・観応2)の師直滅亡後,一時は直義党の上杉憲顕がこの地位に就くが,翌年の尊氏下向によって仁木頼章に代えられる。下向した尊氏は直義を殺し,府中,小金井で新田義興の軍を破るが(武蔵野合戦),南朝方の京都占領という事態を迎え,翌年7月に関東の大軍を率いて上洛する。しかし関東では旧直義党や新田党の抵抗がやまず,鎌倉公方(くぼう)足利基氏は入間川に在陣を余儀なくされる。この入間川御所の警固番役を江戸房重がつとめた史料があり,多くの武蔵武士が公方の警固に当たったであろう。58年(正平13・延文3)10月に新田義興を矢口ノ渡で討った後も,守護となった畠山国清の離反があり,68年(正平23・応安1)には武蔵平一揆が蜂起しており,国内が一応平静化するのは鎌倉府の支配が安定し,管領上杉能憲(よしのり)以後,山内家の家督が当国の守護職を代々継承するようになって以降である。
武蔵野合戦以後,東国でも国人たちが盛んに一揆を結んで行動の統一を図るようになる。この国人層の去就によって上部の権力者が交代する時代に入るが,小領主の多い武蔵国はとくにこの動きが激しく,平一揆,白旗一揆,北白旗一揆,南一揆など,多くの一揆が史料にみえている。一方,一応の安定を得た鎌倉府では,基氏以降代々の公方がともすれば京都の将軍と対立し,自己の基盤を強めるため国人層の結集に努めた。とくに1409年(応永16)に鎌倉公方となった持氏の熱意は激しく,《簗田家記》は,公方の親衛軍である奉公衆を1000人にする計画を立てた持氏は,一揆構成員の一類に格別の恩賞を与えて取り立て,また大名の従者を直接把握しようとし,管領,諸大名を恐怖させたと記している。このような公方の積極的な国人把握政策が,有力大名による合議政治をめざす管領の政策と背反し,また関東の有力武将を京都扶持衆としている将軍の政策と衝突することは明らかで,これに管領上杉家の内紛がからんでくる。16年の上杉禅秀の乱,39年(永享11)の永享の乱,そして49年(宝徳1)以降の公方成氏下向にともなう動乱も,基本的にはこうした国人把握をめぐる対立が原因であり,これらの事件にはつねに武蔵の国人一揆の動きがからんでいる。その意味では太田資長(道灌)が江戸城を,資清が岩槻城を,上杉持朝が河越城を築いたと伝えられる57年(長禄1)は,武蔵国の一つの画期といえよう(《鎌倉大草紙》)。
1486年(文明18)太田道灌が主君上杉定正に殺されるとまもなく,95年(明応4)に北条早雲は小田原城をおとし,古河(こが)公方や両上杉の争いに乗じながら関東経営に着手し,孫氏康のとき,1546年(天文15)の川越夜戦を契機に後北条氏による武蔵支配が確立された。氏康は55年(弘治1)〈武蔵卯ノ検地〉を行い,59年(永禄2)に家臣団の所領,所役を調査,認定して《小田原衆所領役帳》を作成した。ここには八王子,鉢形など支城主配下の分はないが,貫高制をとった北条氏の支配体系の概要はこの役帳により推察できる。その記載貫数は約7万2000貫,郷村は武蔵338,相模359,伊豆116,下総,上総,上野,下野46である。以後90年(天正18)豊臣秀吉,徳川家康の関東進出まで,当国は相模と並ぶ後北条氏の基盤となった。
なお中世庶民の村落生活の変化を系統的に示す史料はきわめて乏しいが,《鶴岡事書日記》《八幡宮供僧次第》《香厳院珎祐記録》などによって,鎌倉~室町期の鶴岡八幡宮領武蔵国佐々目郷,矢古宇郷の研究が進み,供僧の分田支配,耕地の開発と居住状況の変化,惣郷結合と農民闘争などの様相がかなり明らかになった。これは武蔵国に限らず,広く東国研究の貴重な素材である。
執筆者:福田 豊彦
1590年(天正18)徳川氏が東海地方から関東に移って以来,1868年(明治1)官軍が江戸に入るまでのおよそ270年余,武蔵国は徳川氏の直轄領(天領)と,20家の大名領,670余の旗本領および多数の寺社領で構成されていた。武蔵国の郡はこれまで多摩,入間,埼玉の3郡をそれぞれ東西に分け,すべて合わせて24郡であったが,近世になると多摩,入間,埼玉をそれぞれ一郡にし,これに下総国葛飾郡の西部を加えて22郡になった。しかし郡を単位とする官庁が置かれたわけではなく,徳川氏および大名,旗本,寺社の支配は石高単位でなされた。17世紀半ばに編纂された《武蔵田園簿》によると武蔵国総国高は98万2337石9斗6升5合8夕で,このうち御領と呼ばれた徳川氏の直轄領は48万4814石1斗1合5夕5才,大名領,旗本領,寺社領を合わせた私領は49万7431石6斗1升6合2夕5才であった。
徳川氏は関東へ移ると江戸城を居城とし,家臣団を配置するのに,小知行者を江戸付近へ,大知行者を遠方へ置く方針をとった。また蔵入地(直轄地)を江戸近くに多く置き,江戸城を維持するための配慮もした。こうしたことの結果,武蔵国は,近世を通じて蔵入地と多数の小知行所が混在し,大名領がこの間に点在する複雑な支配の形をとった。しかし徳川氏は江戸城を拠点として,江戸回り,江戸5里四方,江戸10里四方といった地域を設定し,あるいは鷹場を置き,支配権の一部であるが,領主の相違にかかわらず徳川氏が,この範囲を一円に支配するものとした。また徳川氏は,入国当時武蔵国にあった後北条氏の諸城のうち,江戸城を徳川氏の居城と定めたほかに,岩槻,騎西,奈良梨・蛭川(ひるがわ),忍(おし),深谷,松山,川越,羽生(はにゆう),東方,八幡山,本庄の諸城に1万石ないし2万石の大名を配置した。その後廃藩や新設で藩の異動があり,また居城は引き続き置かれていても城主の交代が激しく,明治維新当時存在した藩は岩槻藩,忍藩,川越藩,岡部藩,六浦藩の5藩であった。これらの武蔵国内に居城,居所をもった大名は譜代であり,石高は低かったが幕府の要職についた者が多い。他国に居城,居所がある大名で武蔵国にも領地をもつ者もあり,1664年(寛文4)には,これらを含めて武蔵国内に領地をもつ大名は20家で,その領地は賀美,横見,葛飾の3郡を除く19郡に及んだ。
五街道が指定され宿駅制がしかれると,そのいずれもが日本橋を起点として江戸から放射状に延びる陸運組織が整備された。武蔵国内では東海道に品川・川崎・神奈川・保土ヶ谷,甲州道中に内藤新宿(1698新設)・下高井戸・上高井戸・国領・下布田・上布田・下石原・上石原・府中・日野・八王子・駒木野・小仏,中山道に板橋・浦和・大宮・上尾・桶川・鴻巣・熊谷・深谷・本庄,日光道中に千住・草加・越谷・粕壁(春日部)(かすかべ)・杉戸・幸手(さつて)・栗橋が宿駅として指定された。脇往還は五街道の間を縫って江戸から放射状に延びるものと,五街道のそれぞれを結ぶものがあった。武蔵国内のこれらの街道は網の目のように交わって道路網を形成した。五街道の宿駅の中で品川宿,高井戸宿(後に内藤新宿),板橋宿,千住宿は,それぞれ東海道,甲州道中,中山道,奥州道中の,江戸からの第1宿であるので,江戸の関門的性格も帯びた。このほか,江戸に入る諸街道の,武蔵国の国境には日光御成道に房川渡(ぼうせんのわたし)中田,水戸街道に金町松戸,佐倉道に小岩市川,日光道中に新郷川俣,甲州道中に小仏,甲州道中脇往還に上恩方(かみおんがた)・上椚田(かみくぬぎだ),五日市街道に檜原,秩父から甲州への道に古大滝などの関所が設けられた。また中川から小名木川に入る小名木村には,川の関所として中川番所が置かれた。
武蔵国内の村数は17世紀半ばの《武蔵田園簿》では2417ヵ村,18世紀初めの元禄郷帳では2951ヵ村,19世紀前半の天保郷帳では3042ヵ村である。その石高は《武蔵田園簿》で98万石余(うち田48万石余,畑40万石余),元禄郷帳で116万石余,天保郷帳で128万石余である。《武蔵田園簿》の石高の中には秩父郡2万4662石余のうち2万1655石が永高であり,多摩郡7万3782石余のうちにも永高が含まれているので,元禄郷帳,天保郷帳の石高と直接比較するわけにはいかないが,それでも17世紀半ばから18世紀初めまでの50年間は,18世紀初めから19世紀初めにかけての130年間よりも,村数,石高の増加が著しい。
こうした村数,石高の増加は,新田開発の結果によることが大きい。近世初頭には江戸川,荒川および多摩川の下流地域に水田が多く開かれていった。この地域の開発のために,治水,利水の工事が行われた。東京湾に流れ込んでいた利根川を太平洋に入る常陸川に流す付替工事は,新田開発の目的からだけで行われたのではないが,この時期の大規模な治水,利水の工事であった。このころ荒川下流地域の治水・利水工事や新田開発を担当したのは関東郡代伊奈備前守である。伊奈氏の施行した灌漑工事は溜池を各所につくり,これを用水路で結ぶもので,その工事のあとは備前堤,備前渠(きよ)として名をとどめ,工事方法は伊奈流または関東流と呼ばれた。多摩川下流地域では代官小泉次太夫が左岸の六郷用水,右岸の二ヵ領用水を開いて,新田開発を進めた。
水田地帯の開発にやや遅れて台地が開発され,広大な畑作地帯が出現した。この対象となった主要な地は武蔵野である。19世紀前半に成立した《新編武蔵風土記稿》は〈玉川次左衛門某,野村次郎右衛門某等武蔵野開墾の功を起し,寛文九年(1669)閏十月二十七日検地しおわる。南原野,廻北原,地蔵野,小川新田,砂川新田,下石原新田,松野五箇所,すべて高十八万石ばかり,一所にて広なるもの一区,地蔵野分一区,其余は飛地にて所々に区別せり〉と,この時期の武蔵野の開発を説明し,武蔵国の正保(《武蔵田園簿》)と元禄(元禄郷帳)の石高を比較して60年間に18万5000石が増加したとしている。《武蔵田園簿》と元禄郷帳でこの地域の村数を比較すると新座郡では18から31へ,入間郡では185から243に増加している。元禄年間(1688-1704)には川越藩が,整然と区画した入間郡上・中・下の三富(さんとめ)新田を開いている。18世紀前半になると,さらに武蔵野の開発が進められ,多摩郡から入間郡にかけて,武蔵野新田82ヵ村が成立した。そのほとんどは畑作農村である。武蔵野はこの時期の開発までは公儀野銭場と称する,周辺の村々の共同採草場となっていたが,野はここが開発された後にも個々の農民の野畑として残存したものが多い。また同じように林畑として検地帳に載せられたものは薪炭林として育成された平地林で,いわゆる武蔵野の雑木林である。
江戸地回り経済の展開は,武蔵一国をその経済圏に組み入れた。《新編武蔵風土記稿》の各郡総説に掲げた産物,土産の類をあげると次のとおりである。久良岐郡=魚介,塩。都筑郡=柿,炭。多摩郡=織物。橘樹郡=塩,梨。豊島郡=蘿蔔(ダイコン),茄子,蕃椒(トウガラシ),茗荷,鰻鱺(ウナギ),磁器。足立郡=渋,紙,薯蕷(ヤマノイモ)。新座郡=大根,牛房,蕪根,芋,諸菜,鯉。高麗郡=縄,莚,織物。比企郡=紙,索麵(そうめん)。埼玉郡=木綿,縞,糯米,牛房,索麵,大根,葱。男衾郡=絹。幡羅郡=太織。榛沢郡=絹,太織。那珂郡=蚕,煙草。児玉郡=絹,綿,煙草。賀美郡=蚕,煙草。秩父郡=織物。葛飾郡=早稲米,菘(菜),茄子,葱,海苔,鯉,白魚,鮒,鰻,鯰。入間郡,横見郡,大里郡,荏原郡,記載なし。これらのほとんどは江戸へ送るために生産されたのであるが,こうした生産物で武蔵国各地は,それぞれの生産の地域を形成した。多摩郡東部,豊島郡,足立郡,新座郡,埼玉郡,荏原郡東部,葛飾郡西部は江戸の蔬菜園を形成した。
武蔵国で海に臨むのは久良岐,橘樹,豊島,荏原,葛飾の5郡である。いずれも東京湾を漁場とし,久良岐郡ではタイ,クロダイ,ヒラメ,コチ,イシモチ,アイナメ,セイゴ,タコ,イカ,ナマコ,クラゲ,カキ,アサリ,バカガイ,ミルクイに塩が主要な海産物であった。橘樹郡では塩,荏原郡,葛飾郡の村の記事の中には海苔があげられている。豊島郡であげている鰻鱺は,芝浦,築地鉄砲洲,浅草川(隅田川),深川辺で漁獲するものを〈江戸前〉と称し,ことに喜ばれたという。海産物に対して浅草川のウナギ,シラウオ,荒川のコイ,江戸川のコイ,フナ,ウナギ,ナマズ,中川のシラウオ,フナ,ウナギ,ナマズなどの川魚があげられている。また葛飾郡諸村の用水堀にはフナ,ウナギ,ナマズが多いという。以上のほかにアユとキスが江戸で迎えられていた。キスは中川産のものが,アユは荒川,多摩川のものが佳品とされた。
武蔵国西部の山地は江戸に送る木材,薪炭の生産地であった。高麗郡の西川材,多摩郡の青梅材は江戸の木材市場に送られてその名を得た。薪炭はこれらの山地だけでなく,武蔵野や多摩丘陵でも平地林を造成して生産された。
山地から台地の畑作地帯にかけては織物の産地として名を成したものが多い。すでに18世紀の後半には大宮(秩父),寄居,渡瀬,八幡山,熊谷,小鹿野,吉田,小川,坂戸,飯能,松山,鉢形,越生(おごせ),本庄,深谷,野上,青梅,八王子,川越,新町,扇町屋,五日市,拝島,伊奈,平井には生糸や絹の取引をする市が立ってにぎわっていた。やや遅れて《新編武蔵国風土記稿》には,多摩郡八王子に絹,木綿類,繭,生糸の,青梅では青梅縞の,秩父郡では大宮,本野上村,下吉田村で秩父絹の,それぞれ市が立ったとしている。また,幡羅郡の太織は榛沢郡深谷宿,大里郡熊谷宿の市に出され,同じく榛沢郡の絹,太織は同郡深谷宿,寄居村,熊谷宿の市へ出し,男衾郡の絹は同郡鉢形,寄居の絹問屋へ出されていたという。このほか入間郡では川越が絹,所沢が木綿の産地で,その地の問屋に集められていた。五日市の市は炭市で,山地の木炭がここで集荷された。織物にせよ木炭にせよ,産地で集荷されたものは,そのほとんどが江戸へ送られた。なお武蔵野台地では村々における小麦,ソバの生産を背景に水車製粉が活発となり,ここでの小麦粉,ソバ粉も江戸へ送られた。こうして武蔵国は江戸地回り経済圏内で,主要な地位を占めるようになった。
江戸地回り経済圏の村々から江戸へ送られる生産物に対し,江戸からは各種加工品や肥料が村々へ送られた。近世中期以降,武蔵国の諸村では干鰯(ほしか),糠(ぬか),粕などの購入肥料を広く使うようになった。干鰯は利根川の舟運路を利用し得る村々へは,関東の海岸の村々から河岸問屋の手を経て直接送られたが,その他の村々では多く江戸の干鰯問屋から購入した。糠は江戸の下り糠問屋,地回り糠問屋の手を経るものがほとんどであった。また江戸の下肥も周辺の村々には重要な肥料であった。村々では,個々の農民がくみ取ってきたり,請負人が仕入れるものを買ったりして肥料とした。村には下肥を取り扱う問屋も成立した。江戸地回り経済圏と江戸との間に商品の交流が盛んになると,その輸送路として荒川,江戸川,新河岸(しんがし)川の舟運が活発になり,河岸が次々に成立した。中でも江戸川は利根川舟運の江戸への最終水路となったために,関東各地からの荷物がここを通過した。多摩川の舟運は前3者ほどではなかったが,ここではいかだの川下げが発達した。
江戸地回り経済の発達とともに在郷町が各地に出現した。武蔵国西部の山地から平地に出る谷口には,飯能,青梅,五日市などの谷口集落が,山方と野方の商品の交換の場となった。ここには薪炭,木材,織物などを取り扱う問屋も成立した。諸街道の宿場町も,在郷町として,地域の中心商業都市に変貌していったものが多い。こうして成立した在郷町の中には独自の市場圏を形成するものもあった。開港以後になると八王子は横浜と結びついて,輸出向け生糸の輸送ルートを形成し,江戸はそのルートからはずれていった。
農村や山村の商品経済が進むと,農民の間に富裕な者と貧困な者の階層の分化が大きくなり,両者の対立があらわになっていった。1762年(宝暦12)の多摩郡田安領の増税反対の箱訴(はこそ)事件や,64年(明和1)から65年にかけての北武蔵の伝馬騒動は,まだ対領主闘争の色濃いものであったが,同じく北武蔵の81年(天明1)の糸絹改所設置反対一揆(絹一揆)は,その設置を計画した在郷商人層を攻撃する一揆でもあった。この時期からの農民闘争には,在郷商人を攻撃対象とするとともに,領主の支配を越えた広域の農民が結集する傾きが現れてくる。83年高麗郡の一橋領で起こった検見反対の一揆には,〈穀屋を打壊す寄合〉と思い誤った他領の農民も参加した。84年多摩郡羽村より起こった一揆は多摩郡内にとどまったものの,支配が異なるにもかかわらず,各地の在郷商人が打ちこわされた。寛政年間(1789-1801)と天保年間(1830-44)には糠の値下げと江戸の下肥の値下げの訴願運動が,やや時期をずらして起こっている。これには領主の相違にかかわらず南武蔵の多数の村々が参加した。天保期には武蔵国の各地に,領主を対象とする一揆とともに在郷商人を対象とする打毀が広く発生している。さらに1866年(慶応2)には江戸の大規模な打毀に続いて,高麗,入間,多摩,新座,比企の各郡から上野国にわたる,在郷商人を対象とした大規模な打毀が発生した。小領主による分割支配の特徴をもつ武蔵国では,個々の小領主に対する年貢減免,課役反対の訴願や小規模の一揆が多く,旗本の家政改革を求める村方騒動も頻発した。江戸の屋敷へ門訴を決行する例も多い。この場合,領地を分散してもつ領主に対しては,武蔵国から遠く離れた他国の領地と連絡して共同歩調をとった例もみられる。
執筆者:伊藤 好一
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律令(りつりょう)制により設けられた国で、東京都(島を除く)、神奈川県川崎市・横浜市(一部)および埼玉県の大部分を含む地域。武州(ぶしゅう)ともいう。東は下総(しもうさ)、南東から南西へ東京湾と相模(さがみ)国、西は関東山地が連なって甲斐(かい)に接し、北は上野(こうずけ)・下野(しもつけ)に対している。中央部は関東ローム層に覆われた広大な武蔵野の平野で、北西の山地から南東に向かって流れる利根(とね)川、荒川、多摩川とともに、この国の歴史と文化を育てる舞台となった。
古くは牟佐之と書き、「むざし」と読んだらしい。語源は、もと見狭下国(むさしもくに)と称していたのが訛(なま)ったとか、総下(ふさしも)国が転じたとするなど諸説ある。大化改新の国郡制施行により、前代の牟邪志(むさし)、胸刺(むねさし)、知々夫(ちちふ)の三国造(くにのみやつこ)の領域を武蔵国に統一した。『延喜式(えんぎしき)』では大国とし、京までの行程を上り29日、下り15日とし、初め東山道(とうさんどう)に属していたが、771年(宝亀2)東海道に切り替えられた。管下は豊島(としま)、足立(あだち)、新座(にいくら)、荏原(えはら)、埼玉(さきたま)、入間(いるま)、高麗(こま)、比企(ひき)、横見、大里、男衾(おぶすま)、幡羅(はら)、榛沢(はんさわ)、児玉(こだま)、賀美(かみ)、那珂(なか)、秩父(ちちぶ)、多麻(たま)、橘樹(たちばな)、都筑(つつき)、久良(くらき)の21郡に分けられたが、中世には下総国葛飾(かつしか)郡の一部を編入し、多麻郡が多東・多西の2郡になるなど東西の分郷があり、『拾芥抄(しゅうがいしょう)』『曽我(そが)物語』では24郡と伝える。国府と国分寺はともに多麻郡に置かれ(現東京都府中市・国分寺市)、江戸が開かれるまで政治、経済、文化の中心をなした。
8世紀には盛んに朝鮮半島からの渡来人を移住させて開発にあたらせ、高麗(こま)、新羅(しらぎ)、新倉(にいくら)、狛江(こまえ)などの地名ができた。荒川上流には条里制が敷かれ、9世紀には田地3万5574町歩が開かれ、人口は13万9000人と推計されている。承平(じょうへい)年間(931~938)の平将門(まさかど)の乱は、武蔵権守(ごんのかみ)興世王(おきよのおう)の扇動により起こり、国府も将門の勢力下に置かれた。また秩父牧、由比(ゆい)牧、石川牧などの勅旨(ちょくし)牧も多く、毎年馬50疋(ぴき)を朝廷に献上した。律令(りつりょう)制が緩むとともに横山荘(しょう)、小山田荘、稲毛(いなげ)荘が成立し、それと相まって武蔵七党や坂東八平氏(ばんどうはちへいし)ら、武蔵各地に基盤をもった武士集団が成長し、中世武家社会の中心となった。
鎌倉幕府が開かれると、東北・北国地方と連絡のため、武蔵台地を南北に縦断する鎌倉街道が開かれ、「いざ鎌倉」の武士が盛んに往来した。南北朝時代には足利尊氏(あしかがたかうじ)が守護となり、ついで高(こう)、上杉、仁木(にき)、畠山(はたけやま)氏を経て、室町時代には関東管領(かんれい)上杉氏の支配下に置かれた。1457年(長禄1)太田道灌(どうかん)が江戸城を築いて威を張ったが、戦国時代には相模国小田原を本拠とする後北条(ごほうじょう)氏が進出、越後(えちご)上杉氏、甲斐武田氏らに対する防衛上、各地に支城を置いて一族や重臣を配した。
1590年(天正18)後北条氏にかわって徳川家康が関東に入部し、やがて征夷大将軍に任ぜられて江戸に開幕、以後15代にわたって約300年の徳川時代が続くが、武蔵は終始その権力基盤であった。直轄領(天領)を多くとり、旗本知行所(ちぎょうしょ)を集中させたほか、忍(おし)、川越(かわごえ)、岩槻(いわつき)、岡部、金沢(六浦(むつうら))、世田谷(せたがや)に譜代(ふだい)大名を配し、八王子に千人同心を常駐させるなど、堅固な支配体制を敷いた。また江戸を中心に五街道や脇(わき)往還を設け、宿駅制を整えたので、諸大名の参勤交代と相まって宿場町が栄え、やがて農村地帯にも商業が浸透していく要因となった。18世紀以後、尾張(おわり)徳川家の鷹場(たかば)であった武蔵野が開拓され、82の新田村が成立したが、武州農村は100万の人口を抱えた江戸の後背地としては、全体に商品生産が進展しなかった。近世の名産品に、青梅縞(おうめじま)、秩父絹、品川海苔(のり)、練馬(ねりま)大根、多摩川梨(なし)などがあげられる。
1866年(慶応2)の武州世直し一揆(いっき)は、武蔵の北西部一帯と近国にも及び、幕府の存立を足元から揺るがした。1868年(明治1)武蔵知県事、ついで東京府を置き、品川県、韮山(にらやま)県、小菅(こすげ)県などを設置・統廃合して、93年ほぼ現在の東京都、埼玉県、神奈川県(一部)となった。東京と近郊の発展は、人口密度のもっとも高い地域を現出したが、同時にそれは関東大震災や太平洋戦争の空襲による被害を大きいものとした。しかし戦後も首都および首都圏として経済・文化の集中は進み、国全体からの偏在ぶりが問題となっている。
[北原 進]
『『新編武蔵風土記稿』全12巻(1981・雄山閣出版)』▽『植田孟縉著『武蔵名勝図会』(1975・慶友社)』▽『斎藤幸雄他著『江戸名所図会』(角川文庫)』▽『竹内理三他編『角川日本地名大辞典13 東京都』『角川日本地名大辞典11 埼玉県』(1978、1980・角川書店)』
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東海道の国。現在の埼玉県・東京都と神奈川県東部。「延喜式」の等級は大国。「和名抄」では多磨(たば)・都筑(つづき)・久良(くらき)・橘樹(たちばな)・荏原(えばら)・豊島・足立・新座(にいくら)・入間(いるま)・高麗(こま)・比企(ひき)・横見・埼玉・大里・男衾(おぶすま)・幡羅(はら)・榛沢(はんざわ)・賀美・児玉・那珂・秩父の21郡からなる。国府・国分寺・国分尼寺は多磨郡(現,東京都府中市,国分寺市)におかれた。一宮は氷川神社(現,埼玉県さいたま市)。「和名抄」所載田数は3万5574町余。「延喜式」では調庸は絁(あしぎぬ)・布・帛で,中男作物として麻・木綿・紅花・茜などを定める。713年(和銅6)武蔵の字をあてた。高麗氏などの渡来人により開発が進められ,古くは東山道に属したが,771年(宝亀2)東海道に編入された。勅旨牧をはじめとする牧が多く存在し,のちに武蔵七党とよばれる武士団が勃興した。鎌倉時代には北条氏が守護となり,室町時代には鎌倉公方,のち上杉氏が支配した。戦国期には後北条氏の所領となった。徳川家康は江戸に幕府を開いた。そのためほとんどが幕領と旗本領。1868年(明治元)7月江戸を東京と改称。71年の廃藩置県をへて東京府・埼玉県に統合,一部が神奈川県となる。
出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報
…全265巻。武蔵国の総国図説から建置沿革,山川,名所,産物,芸文と各郡村里に分かれている。文書や記録も収録され,村の地勢,領主,小名,寺社,山川や物産等の記述は詳細で正確である。…
※「武蔵国」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
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年齢を問わず、多様なキャリア形成で活躍する働き方。企業には専門人材の育成支援やリスキリング(学び直し)の機会提供、女性活躍推進や従業員と役員の接点拡大などが求められる。人材の確保につながり、従業員を...
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