多賀庄
たがのしよう
現在の多賀町域に比定され、南北朝期からみえる庄園。庄名は古代の田可郷の系譜を引き、多賀大社とも関連する。元弘三年(一三三三)五月一四日の五辻宮令旨(多賀大社文書)によれば、守良親王は六波羅滅亡の神験を謝して「多賀社庄半分」を多賀社に寄進している。建武四年(一三三七)と推定される六月二一日の佐々木導誉書状(同文書)によれば、守良親王と戦うため信楽に出発した京極導誉は、将軍家のために多賀庄を多賀社に寄進している。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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