多賀大社(読み)たがたいしゃ

精選版 日本国語大辞典 「多賀大社」の意味・読み・例文・類語

たが‐たいしゃ【多賀大社】

滋賀県犬上郡多賀町にある神社。旧官幣大社。祭神は伊邪那岐命(いざなぎのみこと)伊邪那美命(いざなみのみこと)。「古事記」に記載がある古社で、天平神護二年(七六六)神封六戸を受ける。歴代朝廷の祈願所。中世以来、寿命神として信仰され、天正一六年(一五八八豊臣秀吉が母の病気平癒(へいゆ)を祈願。毎年四月に行なわれた多賀祭は大名が神事奉行となり、壮麗で賀茂祭などと並び称された。多賀神社。多賀大明神。多賀の社。お多賀さん。

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デジタル大辞泉 「多賀大社」の意味・読み・例文・類語

たが‐たいしゃ【多賀大社】

滋賀県犬上郡多賀町にある神社。旧官幣大社。祭神は伊邪那岐命いざなぎのみこと伊邪那美命いざなみのみこと。長寿の神として信仰される。多賀大明神。多賀神社。俗称、お多賀さん。

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日本歴史地名大系 「多賀大社」の解説

多賀大社
たがたいしや

[現在地名]多賀町多賀

多賀集落のほぼ中央に位置し、祭神は伊邪那岐いざなぎ命・伊邪那美いざなみ命とするが、近世には伊邪那岐命一座とする説がある(多賀大社儀軌など)。旧官幣大社。一般に「お多賀さん」とよばれ、延命長寿の神として信仰される。「古事記」に伊邪那岐命が「淡海の多賀」に祀られるとみえる。創祀年代は不詳だが、社伝によると、東方約四キロにある杉坂すぎさか山麓の栗栖くるすに伊邪那岐命が降臨したと伝え、現在その地に調宮ととのみや神社(奥宮)が祀られる。天平神護二年(七六六)田鹿神に封戸六戸が、ほかにのちに摂社となる山田やまだ神に五戸、日向ひゆうが神に二戸が与えられ(新抄格勅符抄)、「延喜式」神名帳には犬上いぬかみ郡七座のうちに「多何タカノ神社二座」とみえ、これからのちに祭神二座説が生れた。

〈近江・若狭・越前寺院神社大事典〉

〔中世の祭祀組織〕

鎌倉時代中期頃には「犬上東西郡鎮守」となっており、郡内の御家人層が四月祭礼の祭使役(近世以後は一ノ頭・侍頭・御使殿とも称した)を勤仕し、郷民が馬上役(近世以後は二ノ頭・百姓頭・馬頭人とも)を勤めるのが先例となっていた(文永六年一〇月七日「六波羅下知状」多賀大社文書、以下集合文書名のないものはすべて同文書)。当社の宮座として「神官兼御家人」の多賀氏一族を中心とする「氏座」と、他の御家人・荘官らの地縁的な人々を座衆とする「郡座」があった(正元元年一一月一七日北条時茂書状)。これは近江国の宮座の初見でもある。当時は多賀氏一族の氏神的要素を残し、氏座側が優位な立場にあったため、郡座内の御家人・荘官らとの対立もしばしばみられた。文永六年(一二六九)の前掲下知状によれば、建長年間(一二四九―五六)には郡座側の河瀬かわせ荘・八坂はつさか荘の下司が氏座との対立から神役勤仕を拒否し、また文永六年にも日吉社領八坂荘の荘官が氏座の横暴に対抗するため、大淀おおよど荘・安食あじき荘が神役に従っていないことを理由に神役を拒否し、郡内の青根あおね長曾禰ながそね後三条ごさんじよう佐和さわ松原まつばら(現滋賀県彦根市)の例にならって別社を勧請している。これに対し氏座側は、鎌倉幕府御教書や六波羅下知状で保証された「犬上東西郡鎮守」を理由に、神役勤仕を強く求めて対決している。これらの対立は当社が「犬上東西郡鎮守」であるとはいえ、いまだ郡内全域で容認されていないことを示し、祭祀運営権を握り優位な立場に立つ神官多賀氏一族が、幕府権力を背景に当社の祭祀を通じて犬上両郡を支配しようとする背景があったと考えられる。

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「多賀大社」の意味・わかりやすい解説

多賀大社
たがたいしゃ

滋賀県犬上(いぬかみ)郡多賀町に鎮座。祭神は伊邪那岐大神(いざなぎのおおかみ)、伊邪那美(いざなみの)大神の二柱。『古事記』に「伊邪那岐の大神は淡海(あふみ)の多賀に坐(ま)します」とあるのがもっとも古い記録であるが、『延喜式(えんぎしき)』には「多何神社二座」とある。766年(天平神護2)に神封六戸が寄せられたのを初めとして、古来朝廷から武家、民衆に至るまで広く厚い崇敬を集め、とくに延寿の神としての信仰が盛んである。「お伊勢(いせ)参らばお多賀へ参れ、お伊勢お多賀の子でござる」とか「伊勢にゃ七度熊野へ三度、お多賀さまへは月参り」と俗謡に歌われ、「お多賀さん」と親しまれた。多賀講の歴史も古い。旧官幣大社。1947年(昭和22)に社号を多賀神社から多賀大社と改めた。

 4月22日の古例大祭は「多賀まつり」とよばれ、鎌倉時代以来の伝統に基づく豪華絢爛(けんらん)の祭り絵巻を繰り広げる。また節分祭(2月節分日)、御田植祭(6月第2日曜日)、万灯祭(8月3~5日)、莚寿(えんじゅ)祭(8月20日~9月15日)その他、年中行事も多彩である。

 所蔵文化財には、国指定重要文化財の調馬厩馬図屏風(ちょうばきゅうばずびょうぶ)、県文化財の三十六歌仙絵屏風などのほか、1333年(元弘3・正慶2)の五辻宮(いつつじのみや)の朝敵誅伐(ちゅうばつ)成就の御寄進状、武田信玄(しんげん)の娘安産の祈願文、豊臣(とよとみ)秀吉の母病気平癒の祈願文など文書に珍重すべきものも多い。境内には安土(あづち)桃山時代築造の書院庭園(国指定名勝)や、重源(ちょうげん)が東大寺再建を志し延命を祈願したときのゆかりの石「寿命石」がある。元正(げんしょう)天皇の御病気平癒を祈りその吉瑞(きちずい)に始まるという「お多賀杓子(しゃくし)」は名物である。

[谷 省吾]

『多賀神社社務所編『多賀神社史』(1933・大岡山書店)』『多賀大社叢書編集委員会編・刊『多賀大社叢書』(1977~)』


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改訂新版 世界大百科事典 「多賀大社」の意味・わかりやすい解説

多賀大社 (たがたいしゃ)

滋賀県犬上郡多賀町に鎮座。伊邪那岐(いざなき)命,伊邪那美命をまつる。《古事記》に〈伊邪那岐大神は,淡海(近江)の多賀に坐すなり〉とある古社。《新抄格勅符抄》に,766年(天平神護2)神封6戸,摂社山田神社へ5戸,同日向神社へ2戸とあり,延喜の制で小社であるが,いつしか延命長寿の神として信仰され,鎌倉時代に犬上郡の総鎮守とされるとともに,神主が御家人として幕府の保護もうけた。元弘の変では亀山上皇の皇子守良親王より賊徒平定祈願をうけ,室町時代社僧の活躍とともに,〈お伊勢参らばお多賀へ参れ,お伊勢お多賀の子でござる〉〈お伊勢七度(ななたび),熊野へ三度,お多賀さまへは月参り〉といわれるほどの衆庶の信仰をあつめ,戦国武将の多くも寄進したが,豊臣秀吉は生母の病気平癒祈願のあと,その礼として米1万石を奉納,徳川幕府も朱印領350石を寄進,彦根藩主井伊氏も147石余の黒印領を寄せた。社殿は1638年(寛永15)幕府の命による造営が完成したが,安永,天明の2度の火災にあい,1805年(文化2)仮造営のあと,1932年再建。しかし,奥書院,庭園等文化財を残している。旧官幣大社。例祭4月22日,多賀まつりのこの日の祭礼は,馬頭人の祭礼とよばれ,鎌倉時代を再現しての豪華なもの。ほかに8月3日よりの万灯祭,中世よりの伝統をもつ多賀講の講社祭が9月28日にある。
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百科事典マイペディア 「多賀大社」の意味・わかりやすい解説

多賀大社【たがたいしゃ】

滋賀県多賀町に鎮座。お多賀さんと親しまれる。旧官幣大社。伊弉諾(いざなぎ)尊と伊弉冉(いざなみ)尊をまつる。延喜式内社とされる。古来延命長寿の神として深く信仰される。中世の宮座組織,不動院の活動などが知られる。例祭は4月22日。続いて古例祭として神輿(みこし)行列,御使馬頭人行列が行われる。重要文化財の屏風,国指定名勝の奥書院庭園などがある。
→関連項目伊弉諾尊・伊弉冉尊多賀[町]高宮

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デジタル大辞泉プラス 「多賀大社」の解説

多賀大社

滋賀県犬上郡多賀町にある神社。旧称「多賀神社」。祭神は伊邪那岐命(いざなぎのみこと)、伊邪那美命(いざなみのみこと)。延命長寿、縁結びの神として古くから信仰を集める。奥書院庭園は国指定名勝。通称、お多賀さん。

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「多賀大社」の意味・わかりやすい解説

多賀大社
たがたいしゃ

滋賀県犬上郡多賀町に鎮座する元官幣大社。多賀大明神という。祭神は,イザナギノミコト,イザナミノミコト。古来,延命長寿の神として名高い。例祭4月 22日。

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