20世紀日本人名事典 「大下常吉」の解説
大下 常吉
オオシタ ツネキチ
大正・昭和期の野球選手 早稲田大学野球部監督。
- 生年
- 明治31(1898)年5月19日
- 没年
- 昭和47(1972)年4月12日
- 出生地
- 青森県八戸市
- 別名
- 幼名=市蔵
- 学歴〔年〕
- 早稲田大学卒
- 経歴
- 12歳の時に叔父の名である常吉を継ぐ。八戸中学校を卒業後、大正8年に早稲田大学に進み野球部に入部。同部監督飛田穂州の指導のもと外野手としてレギュラーに抜擢、三振の少ない堅実なミート打撃で活躍し、11年春の東京6大学リーグで首位打者となりベストナインに選ばれた。その傍らたびたび帰郷して母校の八戸中学校野球部を指導し、15年には初の甲子園出場を果たした。昭和6年飛田の後任として早稲田大学野球部監督に就任するが、7年に大学リーグ戦の運営を巡って六大学野球連盟から一時離脱。また主力選手三原脩(のちプロ野球西鉄・大洋監督)に退部を勧告するなど波乱が続き、8年秋には早慶戦で慶応大学との間に起きたトラブル(いわゆるリンゴ事件)の責任をとって監督を退いた。20年に帰郷、24年以後は八戸高校野球部の監督を務め、31年に甲子園大会のベスト4入りを果たすなど青森県の高校野球発展に寄与した。
出典 日外アソシエーツ「20世紀日本人名事典」(2004年刊)20世紀日本人名事典について 情報