朝日日本歴史人物事典 「大内惟信」の解説
大内惟信
鎌倉前期の有力御家人。惟義の子。帯刀長,駿河大夫判官などと称した。父惟義と共に在京することが多く,後鳥羽上皇の命を受けて南都北嶺の強訴の鎮圧に当たった。承久1(1219)年ごろに父が死去すると,その譲りをうけて伊勢,伊賀,美濃,越前,丹波,摂津などの守護職を兼ねたらしい。惟信の母は後鳥羽上皇の近臣藤原秀康・秀能兄弟の叔母に当たる。この姻戚関係も一助となって上皇との関係は緊密になり,承久の乱(1221)に際しては京方についた。東山道の大井渡に鎌倉幕府軍を迎えうつが敗北し,京方軍全体が退却する因をなした。乱後は出家して叡山に隠れ住んでいたが,寛喜2(1230)年になって捕らえられ,西国に流されたという。
(本郷和人)
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