大内惟義(読み)おおうちこれよし

改訂新版 世界大百科事典 「大内惟義」の意味・わかりやすい解説

大内惟義 (おおうちこれよし)

鎌倉前期の武将生没年不詳。平賀義信の子。1184年(元暦1)源義経に属して平氏を討ち伊賀国守護となる。同国の平氏残党に襲われたが鎮圧に成功。85年(文治1)源頼朝推挙をうけ相模守に任官,さらに美濃国守護となる。頼朝の死後源広綱らと在京して幕府を代表しつつも,院に接近して院領知行建暦(1211-13)ごろ鎌倉へ帰り駿河守・修理権大夫となった。1219年以降死亡したもよう。
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朝日日本歴史人物事典 「大内惟義」の解説

大内惟義

生年:生没年不詳
鎌倉初期の武将。源義光曾孫平賀義信の子。一の谷の戦(1184)では源義経に従って戦い,その直後に伊賀国守護に任じられた。大内呼称は同国大内庄(上野市)に由来するが,惟義がこのときに同庄に本拠をおいたのか,あるいは以前からなのか,定かではない。伊勢,伊賀両国の鎮圧に功があり,文治1(1185)年には相模守に任じられた。源頼朝の死後は在京することが多かったようで,後藤基清らの逮捕,梶原景時の残党の追捕などを行っている。また後鳥羽上皇にも仕えるようになった。源氏一門が次々と排除されていくなかでよくその地位を保ち,数カ国の守護を兼任,駿河守,修理権大夫などに任じた。承久1(1219)年ごろに死去したと思われる。

(本郷和人)

出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報

デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「大内惟義」の解説

大内惟義 おおうち-これよし

?-? 鎌倉時代の武将。
平賀義信の子。寿永3年源義経にしたがい一ノ谷の戦いに出陣して平家軍をやぶり,伊賀(いが)守護となる。文治(ぶんじ)元年(1185)源頼朝の推挙で相模守(さがみのかみ)。頼朝の死後も京都で活躍し,駿河(するがの)守,修理権大夫となった。承久(じょうきゅう)元年(1219)ごろ死去。姓は平賀とも。通称は大内冠者。

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世界大百科事典(旧版)内の大内惟義の言及

【伊勢国】より

… 伊勢および伊賀が平氏にとって特別な地であったことは,平氏滅亡後も同地で数度にわたり残党の反乱が起こったことからもうかがえる。かかる状況に対処するため鎌倉幕府は1184年(元暦1)には大内惟義(これよし)に伊賀の国務をとらせ実質的には守護としての役割も果たさせた。伊勢に関しては明らかでないが平氏の本拠地であることを考えれば,同じころより大内惟義もしくは惟義ののち伊賀・伊勢両国の守護となった首藤経俊が政務をとったのではないかと推測される。…

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