大日本報徳社(読み)だいにほんほうとくしや

日本歴史地名大系 「大日本報徳社」の解説

大日本報徳社
だいにほんほうとくしや

[現在地名]掛川市掛川 城内

現在の掛川城天守閣の北東、旧掛川城の下台所跡に所在する大日本報徳社の本社。右側の石柱に「道徳門」、左側の石柱に「経済門」と刻まれた正門の正面に、明治三六年(一九〇三)に建立された大講堂が建つ。大講堂および大講堂建設設計図案は県指定文化財。当社は二宮尊徳の教えを実践する組織で、同八年に遠江国報徳社として創立、浜松町(現浜松市)玄忠げんちゆう寺を集会所とした。初代社長には倉真くらみ村出身で幕末期に掛川藩地方用達を勤め尊徳仕法を実施した岡田佐平治が就任。のち本社を掛川町に移し、二代社長を幼少の頃に尊徳から直接指導を受けたという岡田良一郎(佐平治の長男)とする。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

世界大百科事典(旧版)内の大日本報徳社の言及

【岡田良一郎】より

…92年日本最初の信用組合である掛川信用組合を創設し,産業組合法制定の端緒を開いた。75年父佐平治により遠江国報徳社が設立され,のち良一郎が社長となり全国各地に多数の支社を設け,1911年大日本報徳社と改称,社長となった。《活法経済論》《報徳学斉家談》《大日本信用組合報徳結社論》などの著作がある。…

【掛川[市]】より

…1802年(享和2)には藩が儒者松崎慊堂(こうどう)を招き,藩校徳造書院を開設している。また幕末から明治・大正期に報徳運動が遠州一帯で盛んとなり,中心となった大日本報徳社の本社が1911年に掛川に置かれた。市街地は逆(さか)川に沿って位置し,広い面積を占める丘陵や小笠山では茶の栽培が盛んで,南部の沖積地には水田が多い。…

【報徳社】より

…彼らは明治期に各地において報徳社運動を台頭せしめる推進力としての役割を果たした。とくに75年岡田佐平治,良一郎らによって設立された遠江国報徳社は,1911年大日本報徳社と改称され,報徳社運動の元締めとして大きな影響を及ぼしてきた。報徳会【伝田 功】。…

※「大日本報徳社」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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