掛川城下(読み)かけがわじようか

日本歴史地名大系 「掛川城下」の解説

掛川城下
かけがわじようか

[現在地名]掛川市掛川・城下しろした城西しろにし一―二丁目・中町なかまち連雀れんじやく仁藤町にとうちよう・仁藤・喜町きまち塩町しおまち肴町さかなまち紺屋町こうやまち下俣しもまた中央ちゆうおう二丁目・十九首じゆうくしゆ

掛川藩城下町。現掛川市の南部中央に位置し、西流するさか川北岸にあたる掛川城の城中・郭内・武家地、南岸にあたる東海道掛川宿一三町で構成されている。江戸期の城は天王てんのう山南西の龍頭りゆうとう山に築かれており、逆川は南の外堀の役割をはたし、城と侍町の北と掛川宿南端に総構えの堀が巡らされていた(正保城絵図など)

〔築城と城下町の成立〕

中世の東海道は逆川の北を走っており、往還に沿って城西西宿にしじゆく中宿なかじゆく、その東に懸川かけがわ・仁藤が続いていたという。一五世紀後半、駿河守護今川氏は東遠の拠点として掛川城を築いて朝比奈氏に守らせ、築城に伴い街道を川の南に移し、併せて西宿・中宿・仁藤の住人をも沿道に移したという(「掛川誌稿」など)。天文年間(一五三二―五五)には今川氏が東海道の街道整備を行い、要所の守りを固めた(同書など)。永禄一一年(一五六八)一二月、徳川家康進攻城下は焼払われたといわれ(「改正三河風土記」など)、翌年五月六日には今川氏真が城を明渡し(家忠日記増補追加)、家康は家臣の石川家成・康通父子に城を守らせ、城と町を整備させた。

〔近世城下の成立〕

豊臣秀吉は天正一八年(一五九〇)の小田原攻め後に徳川家康を三河・遠江・駿河・甲斐・信濃の五ヵ国から関東に移し、この地に近江長浜ながはま(現滋賀県長浜市)より山内一豊を移し、佐野さや榛原はいばら両郡内で五万石を与えた(同年九月二〇日「豊臣秀吉領知朱印状写」一豊公記)。一豊は同一九年に城と町の造成に着手、慶長五年(一六〇〇)関ヶ原の戦まで城下の形成に努めたという。この間、一豊は大規模な造成を行って城下を再構成し、城を中心に東西に武家地を配し、龍頭山南麓を東西に流れる逆川沿いの東海道に町割を行った。これがいわゆる近世城下の成立である。

〔城下町の構造〕

山内氏が構築した城下は外郭に総構えの堀を巡らし、その内側に土居(土塁)を設け、そのうちを町屋とした。武家地も同様で、外側を総構えの堀と土塁が囲む。城は東海道沿いの中央を大手とし、町人町の東側に天然てんねん寺・増福ぞうふく寺・東伝とうでん寺、西側に円満えんまん寺・徳雲とくうん寺・東光とうこう寺をほぼ等間隔に配している。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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