岡田良一郎 (おかだりょういちろう)
生没年:1839-1915(天保10-大正4)
明治時代の報徳運動指導者。遠江国佐野郡倉真村(現,静岡県掛川市)に生まれる。父佐平治は二宮尊徳の門人として,嘉永年間(1848-54)より報徳結社の普及に活躍,良一郎も1854年尊徳の門に入り,のちいわゆる尊徳門下の四天王の一人となった。彼は報徳運動推進のかたわら地方政治にかかわり,また殖産興業にも挺身した。92年日本最初の信用組合である掛川信用組合を創設し,産業組合法制定の端緒を開いた。75年父佐平治により遠江国報徳社が設立され,のち良一郎が社長となり全国各地に多数の支社を設け,1911年大日本報徳社と改称,社長となった。《活法経済論》《報徳学斉家談》《大日本信用組合報徳結社論》などの著作がある。
執筆者:伝田 功
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
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岡田良一郎【おかだりょういちろう】
農民指導者。遠州の人。二宮尊徳の四大門人の一人で,父佐平治と2代にわたる報徳信者。遠江(とおとうみ)で約200の報徳社をまとめて,1876年遠江報徳本社を設立。掛川農学舎を興して勧業教育に尽くし,1892年報徳社を基礎に掛川信用組合を創設,日本の信用組合の先駆となった。長男の良平〔1864-1923〕は京都帝大総長,文相を歴任,明治末〜昭和初期の文部行政の中心人物。
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岡田良一郎 おかだ-りょういちろう
1839-1915 明治時代の農政家。
天保(てんぽう)10年10月21日生まれ。岡田佐平治の長男。日光で二宮尊徳の塾にまなぶ。明治11年父の跡をつぎ遠江国(とおとうみのくに)報徳社(のち大日本報徳社と改称)の社長となる。25年掛川信用組合を設立。静岡県会議員をへて,23年衆議院議員(当選2回,自由党)。私塾冀北学舎をひらき人材をそだてた。大正4年1月1日死去。77歳。遠江(静岡県)出身。著作に「報徳富国論」など。
出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plusについて 情報 | 凡例
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世界大百科事典(旧版)内の岡田良一郎の言及
【報徳社】より
… 幕末期における報徳社の活動は,時勢に適合するところが多く,東海地方を中心に相模,甲斐,伊勢,河内など各地の農村に深く浸透するにいたったが,とくに遠州地方では,1847年(弘化4)安居院(あぐい)義道が報徳仕法に基づき一社を組織したのを契機に,その後岡田佐平治ら同地方の地主層の指導のもとに,漸次その組織を拡大していった。尊徳には多くの門人が存したが,著名な人物として富田高慶,斎藤高行,福住正兄,[岡田良一郎](佐平治の子)らがあげられる。彼らは明治期に各地において報徳社運動を台頭せしめる推進力としての役割を果たした。…
※「岡田良一郎」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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