大楠村
おおぐすむら
[現在地名]豊田市石楠町
市域では巴川の最上流域にある。明治末期に命名された常寒道が仁王―所石―大楠を結んでいる。字田和に宝篋印塔二基と五輪塔二基がある。また紺屋垣内・檜垣内・当流垣内などのカイト名が残る。近世初めは幕府領、寛永四年(一六二七)奥殿藩支配となり明治に至る。文化二年(一八〇五)から、医師岡野玄当によって寺子屋が開かれ、安政五年(一八五八)に廃止されるが、九〇人の筆子が学んでおり、松平地域では最大規模のものである(松平町誌)。
巴川の跳び石・三段と称する場所は、山筏の難所であった。
大楠村
おおぐすむら
[現在地名]鳥栖市原古賀町 大楠
朝日山の北東、安良川の曲流突出部平地に立地する。佐賀藩領東境の村。文禄四年(一五九五)の豊臣秀吉朱印状写(鍋島家文書)に「おくす」、慶長絵図に「大楠村」とみえる。藩政期の地米(年貢)高は一一四石余(貞享四年改郷村帳)。嘉永六年(一八五三)写の大小配分石高帳によれば、配分士深堀八左衛門(総物成一二五石)が当村で一〇〇石、隣の原古賀村で二五石を知行している。配分士は在地しないのが通例であるが、この深堀氏は当村に地米を独占して居住していた。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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