大田城
おおたじよう
大淀川の河口部右岸に国富庄大田があり、大田城は江戸時代後期に太田村から分村したとされる古城村にあったといわれる。城跡は古城川と北川内川に挟まれた山の城とよばれる丘陵と推定される。建武三年(一三三六)一月二一日の建部清種着到状(池端文書)、同日の建部重種や建部清武の着到状写(ともに禰寝文書)によれば、南朝方の伊東祐広や肝付兼重らを誅伐するため、北朝方に付いた大隅建部一族が国富庄大田城に馳せ参じている。着到状に署判をすえたのは日向国大将の畠山直顕で、当城に畠山直顕がいたとは思えないが、ここが北朝方の結集場所となっていた。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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