畠山直顕(読み)はたけやま・ただあき

朝日日本歴史人物事典 「畠山直顕」の解説

畠山直顕

生年生没年不詳
南北朝時代武将宗義の4男。初名義顕。七郎。修理亮。鎌倉中期に美濃(岐阜県)仲北荘地頭となった義生の曾孫で,建武3/延元1(1336)年3月足利尊氏が博多を占拠した際,日向(宮崎県),大隅(鹿児島県)の国大将として南九州に派遣された。この地には尊氏の直轄領が多く,彼の派遣は南軍追討とともに足利領確保という意味もあった。日隅両国を維持し,貞和1/興国6(1345)年日向守護となったが,観応1/正平5(1350)年8月には禰寝氏らの支持で(足利)直冬党となり島津・大友両氏と争った。直冬党の衰勢とともに力を失い,応安5/文中1(1372)年5月に九州探題今川了俊へ忠誠を誓ったのを期に消息を絶つ。

(今谷明)

出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「畠山直顕」の意味・わかりやすい解説

畠山直顕
はたけやまただあき

南北朝時代の武将。宗義の子。直滋ともいう。延元1=建武3 (1336) 年九州に下った足利尊氏のもとで,九州各地の後醍醐党と戦って勝ち,日向守護に任じられ,足利一門として,島津牽制の任にあった。正平4=貞和5 (49) 年足利直冬に応じ,直冬が九州で勢いを失うとまた幕府側となって,南九州土豪の根強い反島津勢力を背景に,一時は大隅から島津勢力を駆逐する勢いを示した。正平 14=延文4 (59) 年菊池氏に敗れた。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「畠山直顕」の解説

畠山直顕 はたけやま-ただあき

?-? 南北朝時代の武将。
畠山宗義の子。足利尊氏に属し,国大将として日向(ひゅうが)(宮崎県),大隅(おおすみ)(鹿児島県)に派遣される。貞和(じょうわ)元=興国6年(1345)日向守護となる。観応(かんのう)の擾乱(じょうらん)では足利直冬(ただふゆ)とむすんで,日向,大隅に一大勢力圏をつくったが,のち尊氏に守護職を解任された。

出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plusについて 情報 | 凡例

世界大百科事典(旧版)内の畠山直顕の言及

【日向国】より

…楡井頼仲は鹿児島県志布志大慈寺の開創者で日向,大隅にかけて奮戦したが,敗れて57年(正平12∥延文2)同寺で自殺した。
[南北朝の動乱]
 足利尊氏は日向,大隅の南朝方勢力制圧のため,畠山直顕を派遣した。しかし50年(正平5∥観応1)ごろ武家方が将軍方と足利直冬方とに分裂し,直顕は後者に属し,前者に属した島津貞久・氏久父子と抗争した。…

※「畠山直顕」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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