畠山直顕(読み)はたけやまただあき

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「畠山直顕」の意味・わかりやすい解説

畠山直顕
はたけやまただあき

南北朝時代武将宗義の子。直滋ともいう。延元1=建武3 (1336) 年九州に下った足利尊氏のもとで,九州各地の後醍醐党と戦って勝ち日向守護に任じられ,足利一門として,島津牽制の任にあった。正平4=貞和5 (49) 年足利直冬に応じ,直冬が九州で勢いを失うとまた幕府側となって,南九州土豪の根強い反島津勢力を背景に,一時は大隅から島津勢力を駆逐する勢いを示した。正平 14=延文4 (59) 年菊池氏に敗れた。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「畠山直顕」の解説

畠山直顕 はたけやま-ただあき

?-? 南北朝時代の武将。
畠山宗義の子。足利尊氏に属し,国大将として日向(ひゅうが)(宮崎県),大隅(おおすみ)(鹿児島県)に派遣される。貞和(じょうわ)元=興国6年(1345)日向守護となる。観応(かんのう)の擾乱(じょうらん)では足利直冬(ただふゆ)とむすんで,日向,大隅に一大勢力圏をつくったが,のち尊氏に守護職を解任された。

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世界大百科事典(旧版)内の畠山直顕の言及

【日向国】より

…楡井頼仲は鹿児島県志布志大慈寺の開創者で日向,大隅にかけて奮戦したが,敗れて57年(正平12∥延文2)同寺で自殺した。
[南北朝の動乱]
 足利尊氏は日向,大隅の南朝方勢力制圧のため,畠山直顕を派遣した。しかし50年(正平5∥観応1)ごろ武家方が将軍方と足利直冬方とに分裂し,直顕は後者に属し,前者に属した島津貞久・氏久父子と抗争した。…

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出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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