日本歴史地名大系 「国富庄」の解説
国富庄
くどみのしよう
- 宮崎県:宮崎郡
- 国富庄
宮崎平野一帯にあった庄園。庄域は現在の宮崎市、宮崎郡
〔平安末期から鎌倉期〕
安元二年(一一七六)二月日の八条院領目録(内閣文庫蔵山科家古文書)に「日向国富」とみえ、当時すでに鳥羽天皇の第三皇女八条院子の所領だった。寿永三年(一一八四)四月六日、八条院領であった国富庄が池大納言平頼盛に安堵されている(「源頼朝下文案」久我文書)。建久図田帳によれば、八条女院領国富庄は田数一千五〇二町で、一円庄一千三八二町と寄郡一二〇町からなり、当時の庄域は宮崎郡・那珂郡・児湯郡にわたっている。一円庄としては宮崎郡内に
嘉元四年(一三〇六)六月一二日の昭慶門院領目録案(竹内文平氏旧蔵文書)には、国富庄は
国富庄
くにとみのしよう
現小浜市の
とある。官使の立券状に任せ、吉原安富(左大史小槻隆職の仮名)の所領国富保・犬熊野荒浦への国郡使入勘等を停止し、公家長日修法供米などを弁済させるべく、若狭国司宛に命じたものである。ここにみえる国富保は
とみえて、国富保が本来吉原安富の相伝私領であり、永万元年に保を号して以後荒野を開発し、四ヵ所納物(公家長日修法供米・造八省院料米・円宗寺法花会用途・太政官厨家納物)を進済していたことがわかる。ただその後、国中の土民が保領に入作し、勝手に松林寺田や細工名田を称したりする。そこで国司に提訴したところ、一円ということで裁決の庁宣が下ったわけである。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報