大間木村
おおまぎむら
[現在地名]浦和市大間木
三室村の南に位置する。東は大牧村と接するが、同村との境は複雑で、入組みや飛地がはなはだしい。南は付島村。見沼代用水(西縁)が南流し、村内を赤山街道が通る。「延喜式」にみえる武蔵国内四ヵ所の官牧(勅旨牧)のうち立野牧は大間木・大牧を中心とする地域ではないかとされている。天文(一五三二―五五)頃と推定される年未詳二月二七日の太田全鑑判物(豊島宮城文書)に「大まき」とあるが、大牧か大間木かは不明。元亀三年(一五七二)正月九日の北条家印判状(同文書)によると、北条家代替りに際し岩付衆の着到を改定したなかに宮城泰業の所領として「六拾五貫三百六十文 大間木」とみえる。
江戸時代を通じて幕府領であったと考えられる(田園簿・改革組合取調書など)。田園簿では合野谷村とあり、田一七四石余・畑一二五石余。
大間木村
おおまぎむら
[現在地名]八千代町大間木
飯沼新田から崎房村・鴻野山村(現石下町)の間を北上するヤト田の奥西側の台地上に位置。東は栗山村。東部の飯沼の支谷を望む台地上には縄文土器片の散乱がみられる。大間木は「御牧」の転訛したものともいわれ、「延喜式」(兵部省)の大結馬牧に比定される。大間木から尾崎に至る台地上には南北方向に館出とよばれる約二・四キロの土塁が確認され、馬牧遺構と推定されている。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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