日本歴史地名大系 「天童村」の解説
天童村
てんどうむら
寛永一三年(一六三六)の保科氏領知目録に天童城廻とあり、高四千七二六石余。正保郷帳には天童村とあり、田方三千六四三石余・畑方一千八三石余・寺社領一八三石余。元禄一〇年(一六九七)の東根領覚書(横尾文書)によると四千七七四石余とあり、六ヵ町は各庄屋をたてて分割されている。宝暦一〇年(一七六〇)の天童宿の明細帳(山口文書)によると反別田一七一町五反余・畑一九四町三反余、六ヵ町合計の家数四一五(本百姓二二九・名子水呑一八〇・寺四・山伏二)・人数二千七二(男一千一一五・女九五七)、馬三六・牛一。町民のなかには医師三・大工一・桶屋二・紺屋三がおり、酒造高は一八人分を合せると一千二五八石余に及び、旅籠屋が六、七軒ある。町名にみられるように一・三・五・九(田町)の日、月に一二日の日市が行われ、紅花の開花期には五日町に紅花市が開かれた。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報