北目村(読み)きためむら

日本歴史地名大系 「北目村」の解説

北目村
きためむら

[現在地名]いわき市平 手掴てつかみ九品寺町くほんじまち権現塚ごんげんづか紅葉町もみじまちうめちよう四軒町しけんまち北目町胡摩沢ごまざわ桜町さくらまち杉平すぎだいら六間門ろつけんもん六人町ろくにんちよう八幡小路はちまんこうじ道匠小路どうしようこうじ高月たかつき七軒町しちけんちよう大舘おおだて古鍛冶町ふるかじまち揚土あげつち掻槌小路さいづちこうじ旧城跡きゆうじようせき田町たまち一町目いつちようめ二町目にちようめ三町目さんちようめ四町目よんちようめ白銀町しろがねまち柳町やなぎまち鷹匠町たかじようまち番匠町ばんじようまち仲間町ちゆうげんまち大工町だいくまち紺屋町こうやまち研町とぎまち久保町くぼちよう

夏井なつい川右岸にあり、磐城平いわきたいら城下を構成する四村の一つで、その中心にあたる。磐城平城はこの村のうちに築かれている。東は町分まちわけ村、南は十五町目じゆうごちようめ村・長橋ながはし村、北は川中子かわなかご村、西は下好間しもよしま村。永仁二年(一二九四)一一月一一日の伊賀頼泰譲状案(飯野八幡宮文書)によれば「好島西庄之内、預所職、同領家分、飯野郷之内付、河中子・北目・新田・矢河子者」が嫡子光貞に譲られている。


北目村
きためむら

[現在地名]遊佐町北目

南目みなめ村の北にあり、高瀬たかせ川中流右岸に位置する。神矢田かみやだ遺跡には縄文―弥生時代、堂田どうでんみやした道中みちなかAの各遺跡には奈良―室町時代の集落跡がある。「大泉庄三権現縁記」欽明天皇五年八月の記事に「大泉庄司殿御入庄、翌年北目飽海ケ原マテ、田畠開カセ玉フ」とある。承久二年(一二二〇)一二月三日、鎌倉幕府は北目地頭新留守に出羽国両所宮(大物忌・月山両所宮)の修造を命じている(「関東御教書」大物忌神社文書)。当地の菅原家は留守所の子孫と伝える。天正一二年(一五八四)一一月一八日の武藤義興裁許状(菅原文書)によれば、山境をめぐり下塔しもと(下当)と北目の間で争論となり、双方が昔からの領有を主張して武藤義興に訴えたが北目の勝訴となった。翌一三年と推定される一二月一日の土佐林甲斐入道書状(同文書)は、北目山境をめぐる「しもたふ」・下野沢しものざわと北目との争論は、北目が勝訴したことを北目修理進に知らせている。翌一四年三月一五日の武藤義興裁許状(同文書)では、古来下野沢と北目との間で北目川(現高瀬川)境の争論が発生し、下野沢の勝訴とした。


北目村
きためむら

[現在地名]山辺町北垣きたがき

大寺おおてら村の西、白鷹しらたか丘陵の東縁部に位置し、村内を小鶴沢こづるざわ川が東流する。元和八年(一六二二)山形藩領、寛永一三年(一六三六)幕府領となる。天和二年(一六八二)には大名本多利長領となり、元禄一二年(一六九九)幕府領、寛政一二年(一八〇〇)以降高畠藩(のち天童藩)領。寛文一二年(一六七二)検地帳(菅井文書)では高五九〇石余。用水は、玉虫たまむし荒谷あらや大月おおつきの溜井を使用。


北目村
きためむら

[現在地名]名取市愛島北目めでしまきため

高館たかだて丘陵の東麓にあり、南を志賀沢しがさわ川が東流する。北は笠島かさしま村、南東は小川おがわ(現岩沼市)に接する。天文二一年(一五五二)二月一〇日の留守景宗公事年貢免許判物写(留守文書)に「きため」とみえ、訴えにより小川と北目は以後三年間夫丸二人・年貢三分の二のみを納め、その間に荒所開発を行うよう決められている。翌二二年集成の晴宗公采地下賜録によれば、大橋左馬允に「名取北目□□領の夫」が下されている。


北目村
きためむら

[現在地名]天童市北目・北目一―四丁目・松城町まつしろちよう五日町いつかまち二丁目・一日町ひといちまち二―四丁目

舞鶴まいづる山の南から西の山麓にあり、西は天童一日町、南は芳賀はが村。中世の天童城の麓集落と思われる。慶長五年(一六〇〇)の伊達政宗最上陣覚書(伊達家文書)に「北目衆」として一九人の名前が列記される。村のうち東部の愛宕門前あたごもんぜん村三二二石余が愛宕神社別当山形宝幢ほうどう寺領となったので、寛永一三年(一六三六)の保科氏領知目録では北目村の村高七六四石余となる。正保郷帳に田方六〇三石余・畑方一六〇石余・寺社領三二二石余とある。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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