天草学林跡(読み)あまくさがくりんあと

日本歴史地名大系 「天草学林跡」の解説

天草学林跡
あまくさがくりんあと

天正一九年(一五九一)肥前有馬領加津佐かづさ(現長崎県南高来郡加津佐町)より天草に移されたイエズス会のコレジオ跡。跡地については、本渡ほんど丸尾まるおヶ丘説と河浦町の河浦中学校説などがある。本渡説は、コレジオ移転を援助した天草氏が当時本渡城を主城としていたこと、また肥前島原に近く、地理的にも天草の中心であることを根拠とする。河浦説は、当時の天草氏の本拠地が河内かうち浦であること、またヨーロッパ人が河内浦を「天草」と称していたことを根拠としている。ルイス・フロイス「日本史」に「天草諸島は三つ(の大島)から成り、(中略)そのうち、もっとも主要で大きい島が、本来の意味で天草と呼ばれ、(中略)この島は、このたびの(我らイエズス会員に対する)迫害時にはまさに打ってつけの隠遁地であったので、学院(を移す)場所として選ばれた」とある。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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