熊本県南西部に位置する島嶼(とうしょ)。天草下島(しもしま)(573.95平方キロメートル、熊本県)、天草上島(かみしま)(225.23平方キロメートル、熊本県)、長島(90.57平方キロメートル、鹿児島県)、大矢野島(おおやのしま)(29.88平方キロメートル、熊本県)などを主島とし大小130余の島々からなる。全域、標高700メートル以下の低山地であるが、多くの断層によって小山塊に分けられているので、標高に比べて、山懐(やまふところ)が深くかつ多くの山地景観を呈し、平坦(へいたん)地も乏しい。地質的には、大部分が新生代第三紀の堆積(たいせき)岩からなるが、北東部の戸馳島(とばせじま)、維和島(いわじま)から、天草上島の東海岸部、御所浦島(ごしょうらじま)を経て、獅子島(ししじま)、天草下島の南海岸部に達する地域と、天草下島の西海岸部には、中生代白亜紀の堆積岩が分布している。また、長島には天草上島などとは起源の異なる第三紀の火山岩が分布している。気候的には、早崎瀬戸―本渡(ほんど)瀬戸―大崎(水俣(みなまた)市)を連ねた線で二分される。西半の天草下島、獅子島、長島を主島とする地域は、冬暖かく、夏に雨が多く、しかも気温上昇の鈍い海洋性の気候を呈するのに対し、東半の天草上島、大矢野島、御所浦島を主島とする地域は、年平均気温、年降水量ともやや低少である。しかし、夏には「肥後のこち風」(山越えの南東風)の影響を受け、かなり高温になる。
大小130余の島々からなる天草諸島は、北に天草灘(なだ)、早崎瀬戸、三角ノ瀬戸(みすみのせと)を挟んで、それぞれ長崎半島、島原半島、宇土(うと)半島、南に黒之瀬戸を挟んで番所ノ鼻(鹿児島県)、東に八代海(やつしろかい)を挟んで八代平野、九州山地とそれぞれ相対し、さらに西で東シナ海に連なる天草灘に臨む要地に位置する。このため、中世には肥後の豪族だけでなく、肥前、薩摩(さつま)の豪族も天草諸島の領有をもくろんでいた。たとえば、相良(さがら)氏(肥後)に追われた豪族長島氏が島津氏(薩摩)の保護を求め、島津の肥後進出の契機をなしたのは、その好例といえる。とくに、この進出は、律令(りつりょう)制の地方行政区画として定められて以降、変わることなく持続されてきた天草諸島の全域を「肥後国天草郡」一郡とする地域掌握単位を崩した。すなわち、天草郡下の長島、獅子島などが薩摩国出水(いずみ)郡下に編入(1581)され、この状態はこれ以降、現在に至るまで続いている。したがって今日、天草諸島を行政区画単位として扱う場合には長島、獅子島などを含めないが、地理区画単位の場合には含めるのが一般的である。
島原・天草一揆(いっき)の背景には、天草諸島の低生産性を無視した過酷な年貢割付(ねんぐわっぷ)もあるといわれるほど、天草郡の郡高(初め4万5000石、のちに2万1000石に減)は実情とかけ離れたものであった。「耕して、天に至る」とまで形容されたように、短い小河川がつくりあげた樹枝状に延びた沖積地はもとより、島を覆う低山地斜面は、各所で段々畑に利用され、自給作物であるサツマイモ、麦の栽培が行われた。それでも島の人々の経済状態は好転せず、山方にあっては薪炭製造、海方では漁労と生業を兼ね、兼業のできないものは男女を問わず出稼ぎ奉公(長崎奉公、からゆきさん)に出た。とくに出稼ぎ者は、文化だけでなく、経済基盤の脆弱(ぜいじゃく)性を補う産業に対しても鋭敏に反応し、江戸後期のカツオ釣り漁の導入(牛深(うしぶか)ほか)、明治時代の坑木林業(天草下島、天草上島、御所浦島)、イワシ網漁(牛深ほか)、養蚕業(本渡ほか)、クルマエビ養殖(維和島)、大正時代の酪農業(大矢野島)、昭和期の花卉(かき)露地栽培(大矢野島)、野菜露地半促成栽培(河浦(かわうら)ほか)、野菜露地抑制栽培(苓北(れいほく)ほか)などの産地形成化に重要な役割を演じた。天草六橋(天草瀬戸大橋をも含む)架設後は、宇土半島を陸橋として、熊本本土とのつながりが密接化し、繊維、電子関係など労働集約型工場の進出(本渡、河浦ほか)がみられるほか、それまで、雲仙天草国立公園(うんぜんあまくさこくりつこうえん)に指定されていながらも、道路網の未整備から観光産業と無縁であったこの地に、滞在(宿泊)型観光に対応する諸施設(ホテル、旅館など)がつくられてきた。
陸上交通全盛の現代においても、天草諸島と相対する周縁地域との海上交通路は確保されている。たとえば、三角(宇土半島)―松島(天草上島)―本渡(天草下島)、松島―八代、牛深(天草下島)―蔵之元(長島)(鹿児島県)、中田(天草下島)―片側(獅子島)(鹿児島県)―諸浦(しょうら)(長島)、苓北(天草下島)―茂木(もぎ)(長崎市)、鬼池(おにいけ)(天草下島)―口之津(くちのつ)(長崎県南島原市)などは主要海路で、日常の往来も頻繁である。天草諸島を仲介にして形成された長崎、佐賀、熊本、鹿児島4県民の錯綜(さくそう)した通婚圏は、文化的な坩堝(るつぼ)としての天草諸島の性格を物語ってもいる。
観光資源でもあるキリシタンにまつわる文物は、貧困にあえぐ島の人々がその救いをイエスに求め、つかのまの安らぎを得たもので、全域でみいだされる。長崎、島原を介し、天草諸島に伝播(でんぱ)したこの信仰は、厳しい弾圧の繰り返しにもかかわらず、「隠れキリシタン」としてその灯をたやすことのなかったのは、天草の島嶼性と、山懐の深い山地性に依存している。
[山口守人]
〔世界遺産の登録〕天草下島の崎津(さきつ)集落は、2018年(平成30)、ユネスコ(国連教育科学文化機関)により「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」の構成資産として、世界遺産の文化遺産に登録された(世界文化遺産)。
[編集部 2018年9月19日]
『青木秀穂著『天草郷土史譚』(1951・みくに社)』▽『本渡市教育委員会編・刊『天草の歴史』(1962)』▽『山口修著『天草』(1963・金龍堂)』
九州本土の中西部,熊本県宇土半島から南西海上に浮かぶ大矢野島(上天草市),千束蔵々(せんぞくぞうぞ)島(維和島),天草上島(上島),御所浦島(上天草市),天草下島(下島)など大小110余の島々を指す。総面積約881.5km2。人口12万7281(2010)。行政上は本渡,牛深の2市と天草郡13町からなっていたが2006年から上天草市,天草市と天草郡苓北町の2市1町となった。交通,経済,文化の面から,上島以東は熊本県,下島の北西部は長崎県,南西部は鹿児島県との関係が深い。天草は出稼ぎの島として知られる。かつては肥後奉公,筑後の落穂拾いなどとして本土に出かけ,大正期から第2次世界大戦前にかけて,東南アジア各地に〈からゆき〉として赴いた女性には天草出身者が多かった。戦後も東京や阪神方面への出稼者が多く,天草の人口は四半世紀にわたって減り続けてきたが,1966年の天草五橋完成のころから島嶼性を脱皮し,出稼者は減り,人口減少は止まる傾向にある。
天草諸島は西南日本内帯の瀬戸内陥没地帯にあたり,中・低山性の山地が多く平地に乏しい。海岸は沈降性で,とくに上島南部と下島南西部は出入りが多く,その海と島々の美しさから,島原半島の雲仙とともに1956年雲仙天草国立公園に指定された。また大矢野島と上島との間には天草松島の景勝地がある。地質は全般的に第三紀層が発達し,これらは多くの断層によって切られ複雑である。上島東部と下島西部には中生代白亜紀層が分布し,中西部の旧天草町高浜付近には白亜紀や古第三紀層に火成岩が貫入して生成された天草陶石を産し,全国の陶業地に移出される。対馬暖流が諸島の西方海上を北上するため,海洋性気候を呈し一般に温暖で,山地にはシイ,カシ,ヤブツバキなどの照葉樹林,海辺にはアコウなどの亜熱帯植物が茂る。
下島北岸には縄文・弥生遺跡,ほかの島々でも各地に古墳が発見され,古くから開かれたことを示している。天草の名は《続日本紀》に初めて見え,《和名抄》では波太,天草など5郷に分かれている。13世紀の初めに,天草氏が本戸(砥)(現在の本渡)の地頭に任ぜられ,戦国時代には志伎,天草,上津浦,大矢野,栖本の天草五人衆が各地に割拠していたが,豊臣秀吉の九州平定以後,小西行長の支配に属した。16世紀後半にはキリスト教が伝わり,信仰の波が全島に広がった。17世紀の初め加藤清正が一時領有した後,唐津城主寺沢氏が天草を与えられ,石高4.2万石として過大に評価し,高い課税で島民を苦しめ,後の大乱の原因をつくった。1637年(寛永14)に起こった島原の乱で島は荒廃し人口は激減した。その後天草は一時期を除いて天領となり,代官鈴木重成と重辰父子は命がけで石高の半減,天草への移住を図るなど民生の回復に尽力,今では鈴木神社にまつられ島民の尊崇の的となっている。乱後のきびしい禁制の下,潜伏キリシタン信仰の灯は下島の西海岸を中心に明治まで消えなかった。1868年(明治1)富岡県,その後長崎県,八代県などをへて76年熊本県に属し,郡役所も江戸時代政庁の置かれた富岡(苓北町)から本渡に移った。
山がちの地形から耕地は島のわずか10%と少なく,多くの一毛作田に早期水稲,丘陵や傾斜地の段畑には,江戸中期に導入されて島民を救ったサツマイモがつくられ,その後はサトウキビ,昭和の初めには養蚕が行われた。第2次世界大戦後は同じ暖地性のミカンや畜産が始められた。戦前,天草の三大産業といわれた石炭,造船,漁業のうち,石炭は下島西岸一帯から牛深にかけて高カロリーの無煙炭が採掘されていたが,1975年を最後にすべて閉山,造船も戦後衰えた。沖合では暖流にのるアジ,サバ,イワシ,沿岸ではタイ,エビ類などが漁獲され,内湾や入江ではクルマエビ,ブリ,タイ,真珠などの養殖が盛んである。
本渡を中心に島内各地にバス網が発達し,天草五橋の完成で九州本土と陸続きとなり,交通量も増え,本土との関係が深くなった。また海上には三角~姫戸・竜ヶ岳間に定期船,鬼池~口之津,牛深~長島,富岡~茂木などにフェリーボートが航行している。天草観光の特色は,天草松島一帯の多島海風景,下島西岸の海岸美,下田温泉,殉教の哀史にまつわる富岡吉利支丹供養碑(史),殉教戦千人塚(旧本渡市),静かな農漁村の丘や海浜に建つ天主堂(大江,崎津)などで,ほかに民謡と踊りの《天草ハイヤ節》などがある。
執筆者:岩本 政教
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…またこの構造線の南側つまり外帯にあたる地域は九州山地で,V字状の渓谷と険しい山々がそびえ,球磨川中流に人吉盆地を抱いている。本土から南西に突き出た宇土半島の南西方には八代海をはさんで天草諸島が浮かぶ。 気候は複雑な地形を反映して地域的に変化があり,熊本地域は内陸的気候で,寒暑の差が比較的大きく,南部の九州山地は降水量の多い,やや冷涼な山岳気候を呈し,天草の沿海部はおだやかな海洋性気候で,海岸には亜熱帯植物がみられる。…
※「天草諸島」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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