宇目村(読み)うめむら

日本歴史地名大系 「宇目村」の解説

宇目村
うめむら

中世の大野郡三重みえ郷内の村でほぼ現宇目町域にあたる。豊後・日向両国境に位置し、往還上の戦略的拠点として重視された。「上井覚兼日記」にはうめとも記され、近世初期には宇目郷と称した。

応安六年(一三七三)四月四日の今川義範感状案(薩藩旧記雑録)に「宇目・長峰」とみえ、南朝方の菊池氏の背後を突くため豊後に入った義範(貞臣、九州探題今川貞世の嫡子)は、日向の武士土持栄勝が当地に討入り戦ったことを賞している。長峰ながみねは標高五〇一メートルの山を中心とする地域で、日向国からすいたにを経て長峰を越え、城の腰じようのこしに抜ける往還があった。享徳三年(一四五四)三月には佐伯氏庶子家と思われる惟賀が宇目に参上していること(六月七日「惟賀書状写」柞原八幡宮文書)、永正一二年(一五一五)頃、佐伯方より宇目衆を差遣わしていること(一二月二五日「三田井長武老臣連署書状」奥嶽文書)、および後述することなどから宇目は佐伯氏の支配下にあった可能性が高い。

佐伯氏一〇代惟治は、大永七年(一五二七)大友家に反して討たれたが、このとき宇目酒利さかり村を領有していた森嶽周防守は惟治を裏切ったという(栂牟礼実録)。翌享禄元年(一五二八)一一月二三日、大友義鑑は惟治退治の恩賞として斎藤五郎兵衛尉に筑後国の所領の替りに宇目村のうち一五貫分、一万田与十郎に宇目村酒利のうち一五貫分、吉岡左衛門尉に五貫分を与えている(「大友義鑑知行預ケ状」大友家文書録など)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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