戦国時代の大名。義長の子。親安,親敦,義鑑と名のる。豊後を本拠に筑後・肥後両国,豊前・筑前の一部を領有。1515年(永正12)ころ家を継ぐ。初政で前代からの一族の反乱軍になやまされたが,大内義興の援などもうけてのりきり,後に義興の安芸出兵に援軍を送ったりした。また肥後へは次男菊法師丸を菊池重治(義国,義宗,義武とも)として送り込んだ。義興の子義隆が武藤(少弐)氏を討つため九州へ出兵すると武藤氏を助けて兵を出したが敗れ,筑前の所領保証を条件に和平。その後義隆に味方した菊池義宗を討つために肥後へ出兵。制圧後肥後守護職を得た。内政面では間別銭をはじめて賦課。50年2月,後継者問題で嫡子義鎮派の家臣に襲われ重傷を負い死亡。
執筆者:木村 忠夫
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
戦国時代の武将。大友氏20代の当主。初め親安、のちに親敦。大内義隆(おおうちよしたか)との攻防ののち和睦し、子の晴英を義隆の猶子(ゆうし)とした。筑後(ちくご)、肥後(ひご)にも進出し、豊後(ぶんご)、豊前(ぶぜん)とともに4か国の守護となった。1550年(天文19)末子塩市丸(しおいちまる)を後継者にしようとしたが、嫡子塩法師丸(しおほうしまる)(義鎮(よししげ))派の家臣に襲われ、塩市丸は殺され、義鑑は重傷を受けた(2日後に死去)。駆けつけてきた義鎮に救出され、置文(おきぶみ)(遺言状)を記して義鎮に家督を譲ることになった。この置文は『大友義鑑の条々』といわれ、当時の家臣団構成、周辺諸勢力との関係、領国支配などについて重要な内容が含まれており、21代義鎮(宗麟(そうりん))にとっても大きな指針となった。
[芥川龍男]
『渡辺澄夫著『大分の歴史4』(1977・大分合同新聞社)』
1502~50.2.12/13
戦国期の豊後国の武将。豊後・筑後・肥後3カ国守護。父は義長。幼名塩法師丸のち次郎五郎。初名親安のち親敦(ちかあつ)。修理大夫・左少将。1518年(永正15)父の死により家督相続。20年弟重治を肥後菊池氏の養子とする。大内氏と筑前・筑後・豊前各国の領有をめぐりたびたび抗争し,ことに34年(天文3)の速見郡勢場ケ原(せいばがはる)(現,大分県杵築市)の合戦は激戦であった。一時は弟菊池重治も大内方についたが,38年に大内方と和議成立。46年には伊予国宇和島の西園寺氏領にも侵攻。九州地方における有力戦国大名としての地歩を固めた。しかし長子宗麟(そうりん)の廃嫡と末子塩市丸への家督譲渡を企て,50年2月10日の大友二階崩(にかいくずれ)の変での傷がもとで死没。
出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報
(福川一徳)
出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
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