安位寺跡(読み)あんいじあと

日本歴史地名大系 「安位寺跡」の解説

安位寺跡
あんいじあと

[現在地名]御所市大字櫛羅小字寺屋敷

近年まで戒那かいな山と称されていた葛城かつらぎ山の山中櫛羅くじら滝の上方にあった古代の山岳寺院。俗に戒那千坊(戒那千軒)という。戒那山と号し、別称を堺那かいな(戒那寺)という。寺名の「位」を一に「住」に作るのは誤写か。地元ではアンニ寺になまる。当寺登山口には「七町 嘉元二年五月廿日、金剛仏子蓮覚」と刻む町石、嘉元三年の地蔵石仏(櫛羅猿目垣内から御所新墓地に移転)など、古い石造遺物がある。

創建については、菅家本「諸寺縁起集」に「件寺者、(役)行者修行所也、寺者孝謙天皇位下給後、令出家住給時、建立云々、其後又号称徳天皇即位也、再即位給故仁、号安位寺云々、本尊者十一面観音也」と記すが、「不動寺縁起」には役小角が修練した所で、傍らの滝に不動石仏を安置し、その後大同年間(八〇六―八一〇)に空海が堂を建て、自作の不動を本尊として戒那山安位寺と号したとある。長治元年(一一〇四)の大仏頂陀羅尼儀軌一帖(高野山宝寿院蔵)に「長治元年六月八日巳時許金峯山吉水寺奥院於常乗房奉書写畢、安位寺僧慶尋之、同日未時交点了、以同月(ママ)日次第伝受了」とみえ、奈良県新庄町笛吹ふえふき神社旧蔵大般若経六〇〇巻のうちに安位寺僧が同寺において書写したとある。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報