出典 日外アソシエーツ「歌舞伎・浄瑠璃外題よみかた辞典」歌舞伎・浄瑠璃外題よみかた辞典について 情報
…その後1910年,横田商会で映画スター第1号である尾上松之助の主演で《大石内蔵助一代記》がつくられ,つづいて同年,同じ横田商会が牧野省三監督,尾上松之助の浅野内匠頭・大石内蔵助・清水一角三役で,映画ではじめての〈忠臣蔵〉全通しである《忠臣蔵》をつくった。牧野省三,尾上松之助のコンビは,こののちも日活で,同社の創立記念作品《忠臣蔵》(1912),《仮名手本忠臣蔵》(1917),最初の超大作といえる《実録忠臣蔵》(1921)など,何度も〈忠臣蔵〉を映画化した。さらに尾上松之助は26年の日活大作《実録忠臣蔵》(池田富保監督)に主演し,牧野省三は日活から独立したのちもみずからのプロダクションで忠臣蔵映画をつくりつづけ,28年には畢生(ひつせい)の大作としてマキノ・プロ作品《忠魂義烈・実録忠臣蔵》を製作し,完成フィルムが火災にあったものの,焼け残りの部分を公開して絶賛を浴びた。…
…さらには監督の松田定次(さだつぐ)(1906‐ )も省三の子(茶屋・滝の家の女将との子)として知られる。 牧野省三がもっとも情熱を注いだ作品は《忠臣蔵》で(計6本撮っている),日本映画の一つのジャンルとすらなった〈忠臣蔵映画〉の流れをつくったのも牧野省三の功績であり,松之助が浅野内匠頭,大石内蔵助,清水一角の三役を演じた初の長編《忠臣蔵》(1910‐12)をはじめ,省三が日活から独立して牧野教育映画撮影所で撮った最初の長編映画《実録忠臣蔵》(1922)は,〈歌舞伎型から写真劇への脱皮〉によって時代劇革新の第一歩を踏み出したと評価される(田中純一郎《日本映画発達史》)。そして,1928年,みずからの生誕50年記念映画として〈畢生(ひつせい)の大作〉と自負した《忠魂義烈・実録忠臣蔵》が一部焼失して不完全なまま公開され,ヒットはしたものの,これを最後に第一線から退き,翌29年9月に病死した。…
※「実録忠臣蔵」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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