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福地桜痴 ふくち おうち

デジタル大辞泉の解説

ふくち‐おうち〔‐アウチ〕【福地桜痴】

[1841~1906]政治評論家・劇作家・小説家。長崎の生まれ。本名、源一郎。「東京日日新聞」主筆・社長として言論界で活躍。また、演劇改良に尽力。歌舞伎座を創設した。戯曲「春日局(かすがのつぼね)」など。

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百科事典マイペディアの解説

福地桜痴【ふくちおうち】

明治の政治評論家。名は源一郎。長崎の医者の子。1859年通訳として幕府に出仕し,遣欧使節随員として1861年,1865年の2度渡欧。1868年《江湖新聞》を発行,薩長討幕軍を非難し逮捕された。
→関連項目鏡獅子活動写真栗本鋤雲江湖新聞塚原渋柿園永井荷風団団珍聞

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デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説

福地桜痴 ふくち-おうち

1841-1906 明治時代のジャーナリスト,劇作家。
天保(てんぽう)12年3月23日生まれ。もと幕臣。慶応4年佐幕派の新聞「江湖(こうこ)新聞」を発刊し,逮捕され発禁となる。明治7年東京日日新聞社の主筆,9年社長。15年帝政党を結成,37年衆議院議員。演劇改良の場として,22年歌舞伎座を創設した。脚本に「春日局(かすがのつぼね)」など。明治39年1月4日死去。66歳。肥前長崎出身。本名は源一郎。著作に「幕府衰亡論」「懐往事(かいおうじ)談」「もしや草紙」など。
【格言など】大久保は政治家に必要な冷血があふれるほどあった人物である(大久保利通を評したことば)

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世界大百科事典 第2版の解説

ふくちおうち【福地桜痴】

1841‐1906(天保12‐明治39)
明治時代ジャーナリスト。通称源一郎,桜痴は号。長崎に生まれた。父苟庵(こうあん)は医者。1856年(安政3)オランダ大通辞の名村花蹊に入門,才知抜群の誉れ高く,請われて名村家の養子となったが,同僚塾生から排斥され,58年,江戸に出た。森山多吉郎英学を学び,59年より通辞として江戸幕府に出仕した。61年(文久1),65年(慶応1)の2度にわたり,遣欧使節に従ってヨーロッパを見学した。ヨーロッパ文明に傾倒し,幕政改革を画策したが不首尾に終わり,江左風流第一才子と自称して,遊蕩にはげんだ。

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

福地桜痴
ふくちおうち

福地源一郎」のページをご覧ください。

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

福地桜痴
ふくちおうち
(1841―1906)

明治の新聞記者、文学者。本名源一郎。天保(てんぽう)12年3月23日長崎の医師の家に生まれる。幼少時から秀才の誉れ高く、長川東洲(おさがわとうしゅう)に漢学を学ぶ。ついで名村花蹊(なむらかけい)に蘭学(らんがく)を学び、江戸に上る。1859年(安政6)森山多吉郎の塾に入り、英学を修めた。同年、幕府に出仕し、通訳として累進。1861年(文久1)と1865年(慶応1)の二度にわたり幕府使節に従って渡欧、国際法などを研究したほか、新聞にも関心をもつ。明治維新に際しては、大政奉還に反対する建言をしたが、入れられなかった。1868年(慶応4)『江湖新聞(こうこしんぶん)』を発行。佐幕的内容のため明治政府により発行禁止される。福地も入獄したが、短期日で釈放。1870年(明治3)伊藤博文(いとうひろぶみ)にみいだされ、大蔵省に出仕する。同年、伊藤に従い渡米、財政制度の調査研究にあたる。いったん帰国ののち、岩倉使節団の一員として洋行。このころ、木戸孝允(きどたかよし)の知遇を得る。1874年大蔵省を辞職し『東京日日新聞』に主筆として入社。おりからの自由民権論に対抗して漸進主義を主張した。御用記者と非難されながらも「吾曹(ごそう)」と自称する彼の社説は、つねに注目された。1877年西南戦争に従軍し、詳細な戦況報道によって新聞の声価は高まった。しかし1883年に『官報』が発行されてからは経営不振となり、1888年退社した。以後は小説家、劇作家として活躍。政治小説、歴史小説を著した。歌舞伎(かぶき)の改良にも尽力し、歌舞伎座を創立したり、『春日局(かすがのつぼね)』『侠客春雨傘(きょうかくはるさめがさ)』などの脚本を書いた。1900年(明治33)『やまと新聞』顧問となり、多くの論説、小説を同紙に発表した。明治39年1月4日死去。[有山輝雄]
『田村寿稿「福地桜痴」(『三代言論人集 3』所収・1962・時事通信社) ▽柳田泉著『福地桜痴』(1965・吉川弘文館)』

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世界大百科事典内の福地桜痴の言及

【大森彦七】より

…常磐津・義太夫。作詞福地桜痴,作曲岸沢仲助。1897年10月東京明治座初演。…

【鏡獅子】より

…9世市川団十郎ほか。作詞福地桜痴。作曲3世杵屋(きねや)正治郎。…

【俠客春雨傘】より

…〈おとこだてはるさめがさ〉ともいう。福地桜痴作。1897年4月東京歌舞伎座初演。…

【江湖新聞】より

福地桜痴(源一郎)が仲間の戯作者条野伝平(山々亭有人),出版業者広岡幸助,西田伝助の助力を得て1868年(明治1)閏4月3日に刊行した新聞。発行所は江湖新聞雑報局(無鳥郷雑報局)で,茅町にあった福地の自宅である。…

【校正】より

…誤植の絶無は期しても事実は容易でなく,とくに日本のように漢字,仮名づかいが複雑であり,多様な状況にあってはいっそう困難である。福地桜痴が《懐往事談》(1894)において,論語の〈後生畏(おそ)るべし〉をもじって記した〈校正畏るべし〉は,校正がいかにたいせつであり,1字の誤植がどんなに大事をひき起こすかを戒めた語として有名である。【布川 角左衛門】。…

【社説】より

…これらを社説の祖とみることができる。日本では1867年(慶応3),江戸幕府の大政奉還による混乱期に柳川春三の《中外新聞》,福地桜痴(源一郎)の《江湖新聞》など数種の新聞が創刊されたが,その大半は佐幕的な立場からの報道,主張を掲げた。とくに福地の〈強弱論〉は薩長の敗北を論じて,明治新政府の忌諱に触れ,政府は68年(明治1)福地を逮捕し,最初の筆禍事件となった。…

【素袍落(素襖落)】より

…狂言の《素袍落》に拠った松羽目物。作詞福地桜痴,作曲3世杵屋(きねや)正次郎,鶴沢安太郎,振付2世藤間勘右衛門。初演は太郎冠者を9世市川団十郎ほか。…

【帝政党】より

…立憲帝政党が正式名。1882年3月,政府当局の意をうけて《東京日日新聞》の福地桜痴(源一郎),《明治日報》の丸山作楽,《東洋新報》の水野寅次郎を中心に結成された。福地起草の綱領では,国体の保守,国権の拡張,漸進主義を唱え,国会開設の詔の遵守,欽定憲法主義,天皇主権説,二院制,制限選挙制,天皇の国会議決不認可権などを主張,反民権主義に立った。…

【東京日日新聞】より

…1872年(明治5)2月に条野伝平らによって設立された日報社より創刊された。74年末に入社した福地桜痴(おうち)が社説欄を創設,政府御用新聞としての立場を鮮明に打ち出し,自由民権派の政論新聞に対抗して健筆をふるった。明治前期には岸田吟香末松謙澄らも活躍した。…

【レコード】より

…そしてこれら二つの分野が身近になったことは,西欧中心の,しかも古典・ロマン派中心の従来の音楽観を根底からゆり動かした。 日本でも,エジソンの蓄音機の発明は音楽教育家神津専三郎(1852‐97)によって〈蘇言機〉または〈自言機〉として同年のうちに報じられたが,翌1878年,東京大学教授J.A.ユーイングによって実験され,福地桜痴はこれを〈蘇音器〉とよんだ。商品としての蓄音機の輸入は89年,国産化は長谷川武次郎商店によって92年に始まっている。…

※「福地桜痴」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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