明治の新聞記者、文学者。本名源一郎。天保(てんぽう)12年3月23日長崎の医師の家に生まれる。幼少時から秀才の誉れ高く、長川東洲(おさがわとうしゅう)に漢学を学ぶ。ついで名村花蹊(なむらかけい)に蘭学(らんがく)を学び、江戸に上る。1859年(安政6)森山多吉郎の塾に入り、英学を修めた。同年、幕府に出仕し、通訳として累進。1861年(文久1)と1865年(慶応1)の二度にわたり幕府使節に従って渡欧、国際法などを研究したほか、新聞にも関心をもつ。明治維新に際しては、大政奉還に反対する建言をしたが、入れられなかった。1868年(慶応4)『江湖新聞(こうこしんぶん)』を発行。佐幕的内容のため明治政府により発行禁止される。福地も入獄したが、短期日で釈放。1870年(明治3)伊藤博文(いとうひろぶみ)にみいだされ、大蔵省に出仕する。同年、伊藤に従い渡米、財政制度の調査研究にあたる。いったん帰国ののち、岩倉使節団の一員として洋行。このころ、木戸孝允(きどたかよし)の知遇を得る。1874年大蔵省を辞職し『東京日日新聞』に主筆として入社。おりからの自由民権論に対抗して漸進主義を主張した。御用記者と非難されながらも「吾曹(ごそう)」と自称する彼の社説は、つねに注目された。1877年西南戦争に従軍し、詳細な戦況報道によって新聞の声価は高まった。しかし1883年に『官報』が発行されてからは経営不振となり、1888年退社した。以後は小説家、劇作家として活躍。政治小説、歴史小説を著した。歌舞伎(かぶき)の改良にも尽力し、歌舞伎座を創立したり、『春日局(かすがのつぼね)』『侠客春雨傘(きょうかくはるさめがさ)』などの脚本を書いた。1900年(明治33)『やまと新聞』顧問となり、多くの論説、小説を同紙に発表した。明治39年1月4日死去。
[有山輝雄]
『田村寿稿「福地桜痴」(『三代言論人集 3』所収・1962・時事通信社)』▽『柳田泉著『福地桜痴』(1965・吉川弘文館)』
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明治時代のジャーナリスト。通称源一郎,桜痴は号。長崎に生まれた。父苟庵(こうあん)は医者。1856年(安政3)オランダ大通辞の名村花蹊に入門,才知抜群の誉れ高く,請われて名村家の養子となったが,同僚塾生から排斥され,58年,江戸に出た。森山多吉郎に英学を学び,59年より通辞として江戸幕府に出仕した。61年(文久1),65年(慶応1)の2度にわたり,遣欧使節に従ってヨーロッパを見学した。ヨーロッパ文明に傾倒し,幕政改革を画策したが不首尾に終わり,江左風流第一才子と自称して,遊蕩にはげんだ。幕府の瓦解により失職し,68年(明治1)《江湖新聞》を出し余憤を吐くが,筆禍にあい廃刊した。売文・遊蕩生活を続けるうち,渋沢栄一の紹介もあって伊藤博文,木戸孝允らに認められ,70年大蔵省に出仕した。岩倉使節団の米欧巡遊に一等書記官として加わったが,帰国後官界に合わず,74年辞職して《東京日日新聞》に主筆として入社した。77年の西南戦争には記者として従軍し,帰京して天皇に戦況を奏上した。福地の書く〈社説〉は,言論機関としての新聞の力を社会に大いに認識させた。実現可能な体制内改良,漸進主義をその政治志向とし,民権派新聞と論争したが,開拓使官有物払下事件のスキャンダルでは,政府攻撃の先頭に立った。〈明治14年の政変〉後は政府側にまわり,立憲帝政党(帝政党)をつくった。伊藤博文系の人脈との連携や年来の政治志向からは自然の選択であったが,〈御用新聞〉の非難を増大させる結果に終わり,福地の信用は漸次凋落していった。84年主筆を辞め,論壇を引退してからは,市川団十郎に共鳴,演劇改良運動に熱中,多くの戯曲,小説を発表するとともに,《幕府衰亡論》《懐往事談付新聞紙実歴》など貴重な史論を残した。その生涯は先駆者の悲喜劇をみごとに体現した一生であった。
執筆者:香内 三郎
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出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
…9世市川団十郎ほか。作詞福地桜痴。作曲3世杵屋(きねや)正治郎。…
…〈おとこだてはるさめがさ〉ともいう。福地桜痴作。1897年4月東京歌舞伎座初演。…
…福地桜痴(源一郎)が仲間の戯作者条野伝平(山々亭有人),出版業者広岡幸助,西田伝助の助力を得て1868年(明治1)閏4月3日に刊行した新聞。発行所は江湖新聞雑報局(無鳥郷雑報局)で,茅町にあった福地の自宅である。…
…誤植の絶無は期しても事実は容易でなく,とくに日本のように漢字,仮名づかいが複雑であり,多様な状況にあってはいっそう困難である。福地桜痴が《懐往事談》(1894)において,論語の〈後生畏(おそ)るべし〉をもじって記した〈校正畏るべし〉は,校正がいかにたいせつであり,1字の誤植がどんなに大事をひき起こすかを戒めた語として有名である。【布川 角左衛門】。…
…これらを社説の祖とみることができる。日本では1867年(慶応3),江戸幕府の大政奉還による混乱期に柳川春三の《中外新聞》,福地桜痴(源一郎)の《江湖新聞》など数種の新聞が創刊されたが,その大半は佐幕的な立場からの報道,主張を掲げた。とくに福地の〈強弱論〉は薩長の敗北を論じて,明治新政府の忌諱に触れ,政府は68年(明治1)福地を逮捕し,最初の筆禍事件となった。…
…狂言の《素袍落》に拠った松羽目物。作詞福地桜痴,作曲3世杵屋(きねや)正次郎,鶴沢安太郎,振付2世藤間勘右衛門。初演は太郎冠者を9世市川団十郎ほか。…
…立憲帝政党が正式名。1882年3月,政府当局の意をうけて《東京日日新聞》の福地桜痴(源一郎),《明治日報》の丸山作楽,《東洋新報》の水野寅次郎を中心に結成された。福地起草の綱領では,国体の保守,国権の拡張,漸進主義を唱え,国会開設の詔の遵守,欽定憲法主義,天皇主権説,二院制,制限選挙制,天皇の国会議決不認可権などを主張,反民権主義に立った。…
…1872年(明治5)2月に条野伝平らによって設立された日報社より創刊された。74年末に入社した福地桜痴(おうち)が社説欄を創設,政府御用新聞としての立場を鮮明に打ち出し,自由民権派の政論新聞に対抗して健筆をふるった。明治前期には岸田吟香,末松謙澄らも活躍した。…
…そしてこれら二つの分野が身近になったことは,西欧中心の,しかも古典・ロマン派中心の従来の音楽観を根底からゆり動かした。 日本でも,エジソンの蓄音機の発明は音楽教育家神津専三郎(1852‐97)によって〈蘇言機〉または〈自言機〉として同年のうちに報じられたが,翌1878年,東京大学教授J.A.ユーイングによって実験され,福地桜痴はこれを〈蘇音器〉とよんだ。商品としての蓄音機の輸入は89年,国産化は長谷川武次郎商店によって92年に始まっている。…
※「福地桜痴」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
各省の長である大臣,および内閣官房長官,特命大臣を助け,特定の政策や企画に参画し,政務を処理する国家公務員法上の特別職。政務官ともいう。2001年1月の中央省庁再編により政務次官が廃止されたのに伴い,...
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