歌舞伎座(読み)かぶきざ

精選版 日本国語大辞典 「歌舞伎座」の意味・読み・例文・類語

かぶき‐ざ【歌舞伎座】

[1] 〘名〙 歌舞伎を演じる役者の一座。また、その劇場。
※俳諧・桜川(1674)春一「歌舞妓座の者所望 うて鼓我見はやさん蝶の舞〈玖也〉」
[2] 東京都中央区にある劇場。明治二二年(一八八九福地桜痴が建設。数回罹災したが、そのたびごとに再建され、戦後、歌舞伎の興隆に貢献した。

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デジタル大辞泉 「歌舞伎座」の意味・読み・例文・類語

かぶき‐ざ【歌舞伎座】

歌舞伎を演じる役者の一座。また、歌舞伎を演じる劇場。
東京都中央区にある劇場。明治22年(1889)福地桜痴が建設。明治44年(1911)に改築されるも漏電により焼失、大正13年(1924)再建。奈良時代桃山時代の意匠を併せもつ外観となるが、第二次大戦時の空襲により焼失。昭和25年(1950)に三度目の再建がなされ、平成14年(2002)には登録有形文化財となる。平成22年(2010)老朽化のため解体、平成25年(2013)2月に現在の建物が完成した。

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「歌舞伎座」の意味・わかりやすい解説

歌舞伎座
かぶきざ

劇場。1889年(明治22)11月、東京市京橋区木挽(こびき)町三丁目(現中央区銀座4丁目)に、演劇改良の実現を目的として福地桜痴(おうち)が千葉勝五郎の資金を得て建設した。外観は洋風、内部は日本風3階建ての檜(ひのき)造り、定員1824名、舞台間口13間(23.60メートル)、直径9間(16.29メートル)の蛇の目回しをもち、規模・設備ともに日本一の偉容を誇った。ここで桜痴は演目、演出、観劇制度などに理想興行を目ざしたが、経営に失敗、翌年自身は座付作者にとどまり、経営は12世守田勘弥(かんや)に、ついで田村成義(なりよし)に移り、1913年(大正2)以後松竹合名社の大谷竹次郎にゆだねられた。1911年純日本式宮殿風に改築、1921年漏電により焼失、ただちに再建にかかったが、1923年関東大震災により焼失。1925年鉄筋コンクリート4階建て桃山風の豪華な近代的劇場として再建。1945年(昭和20)空襲により三たび焼失したが、吉田五十八(いそや)の建築設計で旧観を復して1951年1月新築開場した。定員2600名。舞台間口約27メートル。

[菊池 明]

第5期歌舞伎座の開場


第4期歌舞伎座は建て替えのため2010年(平成22)4月に閉鎖され、建物の意匠は踏襲したまま、第5期歌舞伎座を背後の29階建ての歌舞伎座タワーとともに2013年4月に開場。

[編集部]

『歌舞伎座編『歌舞伎座』(1951・歌舞伎座出版部)』


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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「歌舞伎座」の意味・わかりやすい解説

歌舞伎座
かぶきざ

歌舞伎の専用劇場。1889年福地源一郎(桜痴)が東京市京橋区木挽町(今日の東京都中央区銀座)に建設した。外観洋風,内部はすべて日本風で,舞台間口 13間(約 23.63m),奥行 16間(約 28.96m),回り舞台直径 9間(約 16.29m)と 7間(約 12.67m)の蛇の目回し,本花道 5尺(約 1.52m)の機構であった。1896年3月に株式会社組織。1911年改築,1914年興行権を松竹合名社(→松竹)に移管。1921年焼失,1923年再建半ばに関東大震災にあう。翌 1924年12月再建落成。舞台間口(大尽通り)10間5尺(約 19.69m),桟敷のほかはすべて椅子席の 4階建てであったが,1945年5月戦災焼失,1951年1月再建された。2010年4月建て替えのため休館,2013年3月に竣工,同年 4月にこけら落としを迎えた。新しい歌舞伎座の外観・内装などは,それまでの伝統的な意匠を踏襲した。座席数 1808,舞台間口 15間あまり(約 27.573m),奥行 11間あまり(約 20.60m),高さ 3間半(約 6.363m),回り舞台直径 10間(約 18.18m),花道 10間(約 18.18m)。背後にオフィスビルの歌舞伎座タワーが新設され,複合施設 GINZA KABUKIZAの一翼を担う。なお,大阪に新歌舞伎座がある。

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改訂新版 世界大百科事典 「歌舞伎座」の意味・わかりやすい解説

歌舞伎座 (かぶきざ)

東京の東銀座にある劇場。演劇改良運動を背景に,1889年(明治22)11月21日に開場。明治を代表する名優9世市川団十郎,5世尾上菊五郎,初世市川左団次が常に出演し,日本一の劇場となり,以来歌舞伎を主体に上演し続けている。当初の建物は外観を洋式にしてあったが,純洋風の帝劇に対抗して1911年日本式宮殿風に改築,1921年焼失,25年1月外観を桃山風にして再建開場。45年5月戦災で再び焼失したが,51年復興,今日におよんでいる。総建坪3429坪(1万1316m2)余,舞台は間口15間(27.3m),収容人員は2600名である。経営は,はじめ福地源一郎(桜痴),千葉勝五郎相座元,1896年に株式組織になったが,1913年大谷竹次郎が相談役となり,翌年から松竹が劇場を借りて興行,31年には松竹に合併された。49年,戦後の復興に際して株式会社歌舞伎座が設立されて劇場を所有し,興行は松竹が行っている。
執筆者:

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知恵蔵 「歌舞伎座」の解説

歌舞伎座

東京都の銀座にある歌舞伎専用の劇場。1889年11月21日に、演劇改良運動の流れを受けて開設され、古典だけでなく新作など数多くの名舞台を送り出してきた。
創設の中心になったのは政治家・ジャーナリスト・文学者であり、熱心な演劇改良運動家だった福地源一郎。実業家の千葉勝五郎との共同経営で始めたが、経営に失敗。何人かの人手に渡ったあと、1914年から、松竹合名社(現在の松竹株式会社)が興行のすべてを担当するようになった。
デザインは大きく3度変わっている。1911年、老朽化に伴い純日本式の宮殿風のデザインに改築。21年に漏電が原因で火事となり、新劇場を建設することになるが、建設途中の23年、関東大震災がおこり、一時工事を中断する。翌24年に、奈良朝の上品な美しさと桃山様式を併せたデザインの新劇場になる。45年には大空襲で被害を受け、外郭だけが残ったが、51年に前回の桃山様式のデザインを生かして復興した。
2002年2月、「国土の歴史的景観に寄与している」として、登録有形文化財となる。しかし、老朽化に伴い、10年に全面的な建て替えを行うことが決定。10年4月の公演が現在の歌舞伎座で行う最後の公演となり、09年1月~10年4月まで、“歌舞伎座さよなら公演”を行う。新劇場は13年中にビルと劇場の複合施設として誕生する予定。また、新劇場ができるまでは、新橋演舞場や大阪松竹座などで代替興行をすることになっている。

(富岡亜紀子  ライター / 2009年)

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百科事典マイペディア 「歌舞伎座」の意味・わかりやすい解説

歌舞伎座【かぶきざ】

東京都中央区東銀座にある劇場。福地桜痴の企画で1889年創立。歌舞伎の殿堂として繁栄し,1914年からは松竹が経営を取りしきった。漏電(1921年),再建途中の関東大震災(1923年),また第2次大戦中の空襲(1945年)で3度焼失した。1951年開場した建物は登録有形文化財に登録(2002年)されたが2010年,老朽化による建て替えで登録抹消となった。2013年4月再開場。地下鉄東銀座駅と直結,新劇場の背後には29階建てのオフィスビル〈歌舞伎座タワー〉がそびえる。
→関連項目中央[区]

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「歌舞伎座」の解説

歌舞伎座
かぶきざ

東京の劇場。1889年(明治22)11月,福地源一郎(桜痴(おうち))と出資者千葉勝五郎が京橋区木挽(こびき)町(現,中央区銀座)に建設。経営は安定せず,田村成義(なりよし)が参画して96年に株式会社となった。1914年(大正3)から松竹(まつたけ)合名社が実質的経営にあたり,31年(昭和6)に劇場も松竹(しょうちく)興行の所有となった。火災や震災で再建をくり返し,戦災でも焼失。復興に際し株式会社歌舞伎座を創立して建築物を所有し,経営は松竹が担当。2013年(平成25)には新しい建物が完成した。

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日本の企業がわかる事典2014-2015 「歌舞伎座」の解説

歌舞伎座

正式社名「株式会社歌舞伎座」。英文社名「KABUKI-ZA CO., LTD.」。サービス業。昭和24年(1949)設立。本社は東京都中央区銀座。松竹系。劇場・ビル・駐車場を所有。主力は不動産の賃貸収入。食堂・売店などの運営や映画興行・演劇興行を行う。東京証券取引所第2部上場。証券コード9661。

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デジタル大辞泉プラス 「歌舞伎座」の解説

歌舞伎座

東京都中央区にある劇場。1889年開館。数期の建て替えを経て、オフィスビル「歌舞伎座タワー」を併設した現在の姿となる。歌舞伎の公演を専門とする。

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事典・日本の観光資源 「歌舞伎座」の解説

歌舞伎座

(東京都中央区)
新東京百景」指定の観光名所。

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世界大百科事典(旧版)内の歌舞伎座の言及

【演劇改良運動】より

…その後,88年に岡野紫水らが日本演芸矯風会を組織し,さらに日本演芸協会へと改組しつつ,改良劇場建設に拍車をかけた。こうして89年11月,歌舞伎座が開場し,改良推進派の福地桜痴と団十郎が中心になった新史劇や新舞踊劇がすすめられた。しかし,演劇改良運動は,結局は欧化熱によって歌舞伎を改革しようという政策に発し,劇場の洋式化を実現する企てに終わったのである。…

【劇場】より

…以後,中村座は86年に浅草鳥越町へ,市村座は92年に下谷二長町へ転出した。また1889年11月には,木挽町3丁目に歌舞伎座が新築開場した。外装は洋風,内部は和風の3階建てで,定員は1824,舞台間口13間,直径9間の回り舞台と,7間の蛇の目回し,さらに5尺(1.5m)幅の花道をそなえていた。…

【興行】より

…12世守田勘弥が,守(森)田座を猿若町から新富町に移転して新富座を新築し,観客席の一部を椅子席として観劇の仕組を改革したり,また植村文楽軒の操芝居が,大阪博労町の稲荷社境内から松島に移って,文楽座と名のって興行をしたのが,ともに明治5年のことである。99年11月に,福地源一郎(桜痴)と千葉勝五郎らによって木挽町に歌舞伎座(1824席)が開場した。演技空間の拡大とともに,観客席が著しく増大したことは,興行の営利を追求する意図の反映と考えられよう。…

※「歌舞伎座」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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