浄瑠璃(じょうるり)、歌舞伎(かぶき)の『仮名手本(かなでほん)忠臣蔵』の略称。近年では赤穂(あこう)浪士の仇討(あだう)ちを題材にした戯曲・小説類の総称ともいえる。浅野内匠頭(たくみのかみ)の刃傷(にんじょう)は、事件の翌年1702年(元禄15)3月、早くも江戸・山村座の『東山栄華舞台(ひがしやまえいがのぶたい)』という小栗判官(おぐりはんがん)の芝居に脚色され、事件落着直後の1703年2月16日には江戸・中村座で義士討入りを暗示した『曙曽我夜討(あけぼのそがのようち)』を上演し、3日間で中止を命ぜられたという。その後も歌舞伎で数回脚色されたが、浄瑠璃で近松門左衛門が1706年(宝永3)10月の大坂・竹本座に書いた『碁盤太平記(ごばんたいへいき)』は、足利(あしかが)時代の「太平記」を世界にした構成と高師直(こうのもろなお)(吉良義央(きらよしなか))、塩冶判官(えんやはんがん)(浅野内匠頭)、大星由良之助(おおぼしゆらのすけ)(大石内蔵助(くらのすけ))、寺岡平右衛門(寺坂吉右衛門)などの役名を後代に伝え、なかでも竹田出雲(いずも)・三好松洛(みよししょうらく)・並木千柳(せんりゅう)合作の浄瑠璃『仮名手本忠臣蔵』(1748)が大好評を博し、歌舞伎に移されても最高の人気狂言になってからは、これを母体に無数の書替えものが生まれた。
浄瑠璃では近松半二(はんじ)の『太平記忠臣講釈(ちゅうしんこうしゃく)』、福内鬼外(ふくうちきがい)(平賀源内)の『忠臣伊呂波実記(いろはじっき)』、明治期の作という『増補忠臣蔵』(本蔵下屋敷(ほんぞうしもやしき))など、歌舞伎では奈河七五三助(ながわしめすけ)の『義臣伝読切講釈(よみきりこうしゃく)』(現行名題(なだい)『忠臣連理(れんり)の鉢植(はちうえ)』、俗に「植木屋」)と『いろは仮名四十七訓(しじゅうしちよみ)』(弥作(やさく)の鎌腹(かまばら)、鳩(はと)の平右衛門)、三升屋二三治(みますやにそうじ)の『裏表忠臣蔵』(蜂(はち)の巣の平右衛門、道行旅路の花聟(はなむこ)、宅兵衛(たくべえ)上使)、河竹黙阿弥(もくあみ)の『忠臣蔵後日建前(ごにちのたてまえ)』(女定九郎)、『仮名手本硯高島(すずりのたかしま)』(赤垣源蔵)、舞踊として3世桜田治助(じすけ)の『仮名手本忠臣蔵』、黙阿弥の『忠臣蔵形容画合(すがたのえあわせ)』など。以上、おもな作品の名題に多く使われているように、「忠臣蔵」は赤穂義士劇の代名詞のようになり、その傾向は近年にも及び、昭和期には真山青果(まやませいか)の『元禄(げんろく)忠臣蔵』が生まれている。
[松井俊諭]
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…上方における続狂言の最初の作といわれる《非人の敵討》(福井弥五左衛門作,1664年と伝える)は,零落して苦心する主人公の仇討物語で,のちの《敵討襤褸錦(かたきうちつづれのにしき)》,さらには《敵討天下茶屋聚(むら)》などを生む原点となった。江戸時代における仇討物のうち最大の人気と諸分野への広がりをもったのは〈忠臣蔵〉を扱った作品群で,人形浄瑠璃の《仮名手本忠臣蔵》を頂点として,実にさまざまな作品が生まれた。義士銘々伝の形では講釈や浪花節でも人気がある。…
…切腹となった長矩の家臣は,義央を浅野家を破滅に追いこんだ事実上の仇敵とみなし,義央は02年12月14日赤穂浪士に邸を襲われて殺害され,吉良家はその際の対処の仕方が〈不埒〉であるとして取りつぶされた。【田原 嗣郎】 赤穂浪士の討入りに取材した〈忠臣蔵物〉の作品群で,義央は中心人物の一人として描かれる。《仮名手本忠臣蔵》では,高武蔵守師直として登場し,専横なふるまいのうえに好色でわいろ取りの敵役となっている。…
…《菅原伝授手習鑑》《義経千本桜》と並ぶ人形浄瑠璃全盛期の名作。前年,京中村粂太郎座で上演され,初世沢村宗十郎の大岸宮内(大石内蔵助)の名演で評判となった《大矢数四十七本》に刺激されて作られたもので,〈忠臣蔵物〉の最高峰に位置する。興行中,九段目の演出をめぐって人形遣い吉田文三郎と太夫竹本此太夫とのあいだに争いが生じ,此太夫らは退座して豊竹座に移り,代わって豊竹座から竹茂都大隅らを迎えて続演,それを機として竹本・豊竹両座の曲風が混淆するという,浄瑠璃史上,注目すべき事件が起こったことでも名高い。…
…25年,《日輪》の映画化(検閲で《女性の輝き》と改題)を機に原作者の横光利一と知り合い,新感覚派の作家たちと組んで,表現主義風な映像表現のテクニックを駆使して,無字幕の芸術的映画(新感覚派映画と呼ばれた)《狂った一頁》を独立プロ(衣笠映画連盟)でつくった。同種の実験精神は,チャンバラ一辺倒の時代劇に抵抗して〈時代劇から剣を奪った〉異色の時代劇《十字路》(1928)や,日本映画の最初のトーキー大作《忠臣蔵》前後編(1932)における〈ソビエト映画流の音のモンタージュ〉(赤穂城明渡しのシーンにおける鐘の音の対位法的な使い方など)にも見られる。27年,歌舞伎の女形出身の林長二郎(のちの長谷川一夫)を松竹からあずかった衣笠映画連盟(《狂った一頁》の赤字を補うために松竹時代劇の請負製作をしていた)は,〈艶のある〉軟派時代劇,情緒劇を世に送り,女性観客に圧倒的人気を得た。…
…かつて映画界には〈ヒット作の企画に困れば忠臣蔵〉という言い方があったほど,忠臣蔵映画は,つくれば必ず大ヒットするドル箱とされてきた。これは明らかに〈忠臣蔵〉が国民的人気をもつゆえであるが,登場人物が多彩で,しかも人物それぞれの見せ場のあることから,各映画会社のスターの〈顔見世番組〉,いわゆるオールスター作品としてふさわしいとされたことも見逃せない。…
…さらには監督の松田定次(さだつぐ)(1906‐ )も省三の子(茶屋・滝の家の女将との子)として知られる。 牧野省三がもっとも情熱を注いだ作品は《忠臣蔵》で(計6本撮っている),日本映画の一つのジャンルとすらなった〈忠臣蔵映画〉の流れをつくったのも牧野省三の功績であり,松之助が浅野内匠頭,大石内蔵助,清水一角の三役を演じた初の長編《忠臣蔵》(1910‐12)をはじめ,省三が日活から独立して牧野教育映画撮影所で撮った最初の長編映画《実録忠臣蔵》(1922)は,〈歌舞伎型から写真劇への脱皮〉によって時代劇革新の第一歩を踏み出したと評価される(田中純一郎《日本映画発達史》)。そして,1928年,みずからの生誕50年記念映画として〈畢生(ひつせい)の大作〉と自負した《忠魂義烈・実録忠臣蔵》が一部焼失して不完全なまま公開され,ヒットはしたものの,これを最後に第一線から退き,翌29年9月に病死した。…
※「忠臣蔵」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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