②の意に「歌舞する女性」という意味の「歌舞妃」「歌舞妓」などの字が当てられ、「歌舞伎」と書くのが一般的になったのは明治以後である。
歌舞伎は,舞楽,能,狂言,人形浄瑠璃などとともに日本の代表的な古典演劇であり,人形浄瑠璃と同じく江戸時代に庶民の芸能として誕生し,育てられて,現代もなお興行素材としての価値を持っている。明治以後,江戸時代に作られた作品は古典となり,演技・演出が〈型(かた)〉として固定したものも多いが,一方に新しい様式を生み出し,その様式にもとづいた作品群を作りつづけてきた。また,古典化した作品の上演にも新演出を試みるなどの方法によって,全体としては流動しながら現代に伝承され,創造がくり返されている。その意味で,歌舞伎は現代の大衆演劇としての可能性も併せ持っているといえる。
歌舞伎という漢字表記は当て字である。しかし,〈歌〉(音楽性),〈舞〉(舞踊性),〈伎〉(技芸,物まね)をそれぞれ意味するこの当て字は,独特な様式的演劇である歌舞伎の特質をうまく表現しえているところから,広く慣用されている。江戸時代には,初期の遊女歌舞伎時代に作られた〈歌舞妓〉の表記がふつうであったが,明治以後もっぱら〈歌舞伎〉が用いられるようになった。
語源的には,〈かぶく〉(傾く)という動詞の連用形が名詞化したもの(かぶき)で,並み外れたもの,常軌を逸するものといった意味で,精神的な面についても,また異風異装,流行の先端を行く髪形や服装,さらには乱暴狼藉(ろうぜき)の行動など現象的な面についても広く用いた語である。
近世初頭,打ち続いた戦乱に非業のうちに死んだ人たちの魂をまつる御霊会(ごりようえ)にともなった風流(ふりゆう)踊が全国的に大流行した。歌舞伎踊は,この風流踊を母胎とし,中世的な舞とは違って,仮面を着けず,振りをそろえて〈踊る〉舞台芸能として成立する。その最初は,出雲大社の巫女の出身と称し,出雲のお国と名のった女性芸能者が京都にのぼり,〈ややこ踊〉と呼ぶ芸能を演じたのに起こる。〈念仏踊〉〈小原木踊〉〈飛驒(ひんだ)踊〉などの単純な小歌踊を美しく歌い踊った芸能であった。やがて,北野神社の境内で小屋がけしたお国の一座は,当時ちまたを横行していたかぶき者の風俗を舞台に採り上げた〈歌舞伎踊〉を踊って,当時の貴賤大衆から熱狂的な支持を受けた。お国は男装して伊達なかぶき者に扮し,猿若と呼ぶ道化役を供に連れ,女装の狂言師が扮する茶屋女のもとへ通っていく〈茶屋遊び〉の様子を官能的な踊りで演じてみせた。能と同じ舞台を用い,楽器も笛,小鼓,大鼓,太鼓だけであった。〈歌舞伎踊〉という名称が史料に現れたもっとも早いものは,1603年(慶長8)5月のことであった。都市に遊里が設けられると,そこから大勢の遊女が出て,はなやかな群舞による張見世ショーともいうべき舞台を展開し,これを〈遊女歌舞伎〉と呼んだ。このころになると伴奏に新渡来楽器である三味線も加わった。彼女らは芸団を組んで続々と地方に下って巡業した。一方,地方都市にも土着の遊女歌舞伎の座ができ,全国的に流行した。幕府は風俗を乱すとの理由で,29年(寛永6)に他の女性芸能とともにこれを禁止してしまった。
それに代わって台頭したのが〈若衆歌舞伎〉である。前髪をつけた美少年たちによる踊りや狂言の芸能は,すでに女歌舞伎全盛時代から併行して行われていたが,この時に当たってにわかに社会の表面に押し出されてきたのである。若衆歌舞伎は,美少年を主演者として,主として舞や軽業などの芸を演じた。しかし,これも衆道(しゆどう)の売色を兼ねていたために,女歌舞伎同様の弊害をもたらすとの理由によって,52年(承応1)に禁止された。
そこで,若衆の象徴である前髪を剃り落として野郎頭になること,扇情的な舞や踊りでなく〈物真似狂言尽〉を演ずることの2条件を受け入れて,53年再開を許された。これ以後を〈野郎歌舞伎〉と称する。野郎歌舞伎時代,歌舞伎は演劇への道を自覚的に歩みはじめる。女方の写実的な演技術が模索されるとともに,立役,敵役その他の役柄がしだいに成立して,それぞれの演技のくふうが進む。寛文年間(1661-73)には〈続狂言〉が成立し,これ以前の風俗スケッチ的寸劇から,一定のストーリーを持った劇的世界を獲得するに至る。劇の進行に時間的な飛躍を示す記号としての引幕が用いられるようになり,複雑な筋の展開を可能にした。劇場が整備され,役者の数が増加し,見物の層が広がった。野郎評判記が出版されるが,当初の容色本位の野郎賛仰からしだいにその技芸をも評判するようになり,役者評判記の性格を濃くしていく。野郎歌舞伎の時代は,初期歌舞伎における重要な飛躍の時期であり,元禄歌舞伎の準備期間でもあった。
元禄時代(1688-1704)は,都市町人層の経済的成長と富の蓄積を背景にして,さまざまな庶民文化がいっせいに開花した時代である。歌舞伎はその代表であった。江戸,上方にそれぞれ独自の様式が生まれ,内容の複雑化にともなって役者の役柄が分化・整備され,演技術が確立する。〈事(こと)〉と呼んだ,演技・演出の類型が数多く形成された。江戸では,初世市川団十郎が創始したとされる荒事(あらごと)が,武士階級を中心に形成された新興都市の荒々しい気風に合致して喜ばれ,非常な人気を獲得した。一方,京都では,初世坂田藤十郎を代表として,初期歌舞伎の傾城買の狂言の伝統を受け継ぐ和事(わごと)の演技様式が確立する。この時代の狂言のおおよその内容は,こんにちに残された狂言本と役者評判記によって知ることが可能である。狂言構成のほとんどがお家騒動の筋であった。大名家の若殿がお家騒動の犠牲となって国を追放され,みすぼらしい町人の姿で昔なじんだ遊女のもとへ訪ねてくるといった場面が仕組まれ,ここで主人公は〈やつし〉の芸を見せた。これが上方の和事の典型的な場面であった。一般的にいって,元禄歌舞伎では写実的な芸が重んじられた。その趨勢の中で,芳沢あやめらによる女方芸の完成が果たされたのである。敵役(かたきやく)や道外方(どうけがた)の芸が確立し,重んじられたのも注目すべきことである。また富永平兵衛(生没年不詳。延宝~元禄ごろの歌舞伎作者)や近松門左衛門によって,狂言作者が独立の職掌になったこと,役者評判記の記事が容色中心から技芸評へと転換したことなどが,この時期に演劇としての飛躍的な発達を遂げたことを物語っている。
享保(1716-36)から宝暦(1751-64)にかけて,歌舞伎は沈滞期を迎えた。その原因の一つに,享保改革による幕府の弾圧があったのはもちろんである。一方,大坂を中心に人形浄瑠璃が栄え,黄金時代を現出することになったため,歌舞伎は一時その隆盛の陰に押しやられてしまった。
近松門左衛門が浄瑠璃の作に専心するようになって後,歌舞伎界に名作者が登場せず,役者も元禄期に活躍した名優たちの一時代が終わり沈滞期に入った。近松の《国性爺合戦》が人形浄瑠璃で成功してからというもの,人形浄瑠璃の当り狂言をすぐに歌舞伎に移し,各座争って上演する傾向が顕著になる。この傾向は上方にとどまらず江戸劇壇にも波及した。この結果,歌舞伎は人形浄瑠璃の陰となり,〈歌舞伎はあれども無きがごとし〉と評されるほどであった。《菅原伝授手習鑑》《仮名手本忠臣蔵》《義経千本桜》をはじめ《夏祭浪花鑑》《双蝶々曲輪日記(ふたつちようちようくるわにつき)》《一谷嫩軍記(いちのたにふたばぐんき)》《源平布引滝》など,現代の歌舞伎における〈丸本物〉の代表的レパートリーになっている作品の大半のものは,この時期に創作され,ただちに歌舞伎化されたものである。
このころ,初世瀬川菊之丞,初世中村富十郎ら女方の名優たちの活躍によって,〈所作事〉が確立する。所作事は女方のものとされ,いずれも長唄を地とした。《石橋(しやつきよう)》《京鹿子娘道成寺(きようがのこむすめどうじようじ)》などの原型は,この期に初演されている。たまたまこの時期は江戸文化の革新時代で,上方の文化が江戸に流入した。1736年(元文1)に宮古路豊後掾が江戸に下って語ったところ人気を集めた。扇情的な曲節が幕府の忌むところとなりただちに禁止されるが,やがてその系列から常磐津節,富本節が,さらにくだって清元節が派生して,いずれも流行した。
宝暦の末ごろに人形浄瑠璃の力が衰えを見せる。歌舞伎は人形浄瑠璃から戯曲構成や演技・演出上に大きな影響を受け,ふたたび活気を取りもどした。とりわけこの時期には舞台機構の面が発達した。セリ上げや回り舞台がくふうされ,変化に富んだ作劇や演出が可能になった。この面では,上方の名作者初世並木正三の功績が大きい。
明和(1764-72)から安永(1772-81),天明(1781-89)を経て寛政(1789-1801)に至る18世紀後半の時代は,とくに江戸における庶民文化の最高潮に達した時である。洒落本,黄表紙,川柳など〈通(つう)〉を理想とする質の高い文芸が展開するのもこの時期で,都市の消費生活のゆとりを反映しておおらかでのんびりした歌舞伎の作劇,芸,演出が喜ばれ,いわゆる天明歌舞伎が開花する。作者では初世桜田治助,役者では初世中村仲蔵が天明歌舞伎を代表する。治助の作品は伝統的な江戸歌舞伎独特の作風を洗練・発展させたもので,全体にはなやかなムードに包まれ,洒脱で機知に富んでいる。奇抜な趣向を立てることにすぐれ,会話も軽みを主として,すらすらと運ばれる。
初世仲蔵を中心として,立役も舞踊を演じることがふつうになり,常磐津や富本を地とする劇舞踊が流行するのもこの時代である。《双面(ふたおもて)》《関の扉(と)》《戻駕(もどりかご)》などの名作が初演された。桜田治助や金井三笑(さんしよう)も,これらの浄瑠璃をつくるのを得意にした。とくに治助は〈桜田の浄瑠璃〉と呼ばれて,この面の才能を高く評価されていた。
天明末から寛政期のころ,江戸歌舞伎に新しい傾向が育ち始めていた。それは演技・演出の写実的傾向である。中村仲蔵,4世市川団蔵,5世松本幸四郎らによって,動作・風俗に〈正写し(しよううつし)〉すなわち写生的な物真似の芸を尊ぶ風が流行し始め,次の文化・文政期に〈生世話(きぜわ)〉の演技様式として展開を示す基になった。江戸の文化全般が,〈天明調〉からしだいに移り変わろうとしていた。これを象徴的に物語るのが,上方作者初世並木五瓶(ごへい)の江戸下りである。五瓶は生粋の上方作者で,写生的・合理的な構成,テンポのある筋の運び,人物の性格描写などに作風の特色を持っていた。天明期以前ならば,江戸では迎えられない作風であった。しかるに,寛政期の江戸人は五瓶を歓迎した。1794年11月,48歳の五瓶は3世沢村宗十郎とともに江戸に下る。《隅田春妓女容性(すだのはるげいしやかたぎ)》や《五大力恋緘(ごだいりきこいのふうじめ)》は五瓶の代表作である。彼は96年正月,一番目を《曾我大福帳》,二番目を《隅田春妓女容性》と名題を出した。これ以前の江戸では,一日の狂言は一つの大名題とし,一番目(時代)と二番目(世話)とは何らかのつながりを持たせる作劇法を伝統としていた。そのために,筋立てに非合理な面が出てくるのはやむを得なかった。五瓶が一番目と二番目の内容を切り離し,名題もそれぞれ別のものを付けたのは画期的なことであった。それは,上方では早くから行われていた方法であった。五瓶以後,この形式は必ずしも定着はしなかったものの,上方風の合理的な仕組みの骨格を江戸歌舞伎に注入した功績は大きい。
江戸歌舞伎の伝統だった〈綯交ぜ(ないまぜ)〉の構成法を用いながら,五瓶によってもたらされた写実的手法をより徹底させて使うという,独自の作劇術を生み出し,〈生世話〉と呼ばれる市井写生劇の基礎を築いたのが,文化・文政期(1804-30)を代表する4世鶴屋南北である。南北の作品に見る,残酷,非情,狂気,怨念のすさまじさは,他に比類を見ぬほどのものである。彼は,封建道徳や武士社会の倫理のたてまえに縛られて生きねばならない人間の悲しさ,はかなさ,むなしさを描く反面,本能的な欲望のおもむくにまかせて,自由奔放に生きている人間の強靱さ,したたかさを存分に描いた。そういう魅力的な人間像は,社会の身分制度から疎外され,底辺を生きる無名多数の男女たちの日常的な生活描写とあいまって,なまなましい迫力をもって見る者に迫る。濡れ場(濡れ事),殺し場,責め場など官能的な演技・演出が写実的に繰り広げられ,残酷な局面や怪奇の世界が大胆に舞台化された。滑稽の要素も作風を特色づけている。また,爽快でスピーディなテンポで行われる見世物的演出を劇の中で駆使し,奇抜な趣向を可能にした。たとえば《東海道四谷怪談》に見る提灯抜け,戸板返し,仏壇返し,忍び車など大道具の仕掛け,そのほか鬘や小道具の仕掛けを駆使している。だが,南北の才能も,個性の強烈な実力派の役者たちがいてこそ花開いたものである。初世尾上松助(松緑),5世松本幸四郎,5世岩井半四郎,3世坂東三津五郎,7世市川団十郎,3世尾上菊五郎らの実力と個性をよく見きわめ,彼らの芸の魅力を十分に計算した上での作劇の成功が,南北を名作者たらしめたのである。南北の作品の中で,とくに〈色悪〉〈悪婆〉という新しい人間像の典型が確立したことも忘れられない。
文化・文政期には舞踊にも目だった変化が現れた。変化(へんげ)舞踊(変化物)の大流行である。これは,元禄以来の一人一役柄の原則が崩れ,いくつもの役柄を兼ねて演じ分けることが名優の資格のように考えられるようになってきたこと,ケレン,早替りの盛行が象徴するように,観客がスピーディな転換を好むようになったことなどの理由により,当然のごとく現れた現象である。変化舞踊は早く元禄期に上方で成立し,以後もっぱら女方舞踊の一様式となり,おもに三変化,四変化として行われていたが,文化期には内容・形式ともに大きく変わった。変化の数も,一挙に七,九,十二変化というように,その数を競う風潮も生じた。舞踊の名手で人気の伯仲していた3世中村歌右衛門と3世坂東三津五郎との対抗が,変化舞踊の流行に拍車をかけた。
1841年(天保12)10月,堺町中村座と葺屋町市村座が焼失したのを契機として,芝居の取りつぶしが計画された。これは天保改革の一環であった。町奉行遠山左衛門尉の進言によって取りつぶしはまぬかれたが,江戸三座は浅草の猿若町に強制移転させられた。以後,72年(明治5)に守田座が新富町へ移転するまでの30年間,いわゆる〈猿若町時代〉がつづいた。
猿若町時代の歌舞伎を代表するのが河竹黙阿弥である。彼は上方から下った世話物の名優4世市川小団次と提携し,音楽劇的に情緒豊かな,その一面に写実を徹底的に推し進めた多くの作品を作った。《蔦紅葉宇都谷峠(つたもみじうつのやとうげ)》《鼠小紋東君新形(ねずみこもんはるのしんがた)》《三人吉三廓初買》《勧善懲悪覗機関(かんぜんちようあくのぞきがらくり)》など,現代にも〈黙阿弥物〉の名で名作として伝わる数多くの世話物を精力的に書きつづけた。黙阿弥の作品は,先輩の鶴屋南北の作風を受けながら,それとは質を異にする。黙阿弥は小団次との提携によって〈生世話〉の写生的作劇と演出をいっそう徹底させる一方,七五調の美しいせりふを朗々と歌い上げ,濡れ場,強請(ゆすり)場,責め場といった場面の描写を写生的に行う反面,清元の浄瑠璃や竹本の利用,さらには下座(げざ)音楽の多様化と頻用など,主情的な音楽劇風の演出を多用した点に特色がある。黙阿弥の作品には,市井の小悪党を英雄化して主人公としたものが多く,みずから〈白浪作者〉をもって任じていた。
明治維新以後,日本はあらゆる分野で新時代を迎えることになる。新政府のとった文明開化・欧化改良の政策は,当時庶民文化の中心的地位を占めていた歌舞伎にも波及した。江戸歌舞伎の体質は新時代に見合うように改革されねばならなかった。歌舞伎の近代化である。名優の9世市川団十郎は,明治劇団の中心人物であり,しかも進取の気性に富んでいた。そこで,同じ志を抱いていた興行師12世守田勘弥とともに劇界を代表し,政界,財界,文人たちの後援のもとに,いわゆる〈演劇改良運動〉を実践した。従来の歌舞伎の特徴であった非合理的な筋立てと卑俗な内容をやめ,誇張された様式的演技術を廃し,高尚趣味と写実的・合理的な演技術を用いて,新時代にふさわしい演劇を創り出そうとした。その結果生まれたのが,故実を調べ,史実に忠実であろうとした新史劇の〈活歴物〉と,内容の高尚な能に取材した新舞踊劇であった。〈活歴〉とは〈活きた歴史〉の意味で,かつてのような類型化された人物創造を廃し,性格や心理描写に力を入れた。一方,5世尾上菊五郎を中心に,従来の世話物の方法を用いながら,明治の新社会の世相や風俗を写そうとする〈散切物(ざんぎりもの)〉が生まれた。黙阿弥が筆を執ったのである。しかし〈活歴物〉は一般大衆の心をつかむことができずに挫折し,〈散切物〉も新時代に適応するに至らず,ともに成功しなかった。
そのころ,シェークスピア劇の影響を受け,一方団十郎の〈活歴〉に飽き足らなかった坪内逍遥が中心になり,団十郎の方法とは別の新史劇を創造し,これを新時代の国民演劇にしようという運動を起こした。逍遥が1896年に発表した《桐一葉》は,いわゆる〈新歌舞伎〉の幕あけであった。これ以後,歌舞伎界の外部にいる文学者たちが,歌舞伎の脚本をさかんに執筆するようになる。これらの作品は,いずれも伝統的な歌舞伎の内容を否定し,西欧の近代文明から学んだ思想や文芸思潮を主題として注入するけれども,演技・演出の様式はできるだけ伝統的な方法を生かそうというもので,〈古い皮袋に新しい酒を盛るもの〉と形容された。こうして生まれたのが〈新歌舞伎〉と呼ぶ一連の作品である。大正期になり,外遊から帰った2世市川左団次は,新しい演劇創造の熱意に燃え,小山内薫,岡本綺堂,岡鬼太郎,山崎紫紅,永井荷風,池田大伍という文学者たちをブレーンとし,毎月1作の新作を上演しつづけた。とくに岡本綺堂との提携で生み出した《鳥辺山心中》《修禅寺物語》などは名作で,新歌舞伎の中でも古典的作品となった。《元禄忠臣蔵》の連作を書いた真山青果の諸作品も新歌舞伎の代表作となって,現代にも演じられている。
近代の歌舞伎は,こうして新時代に即応しようとするさまざまな試みを行ってきたが,大勢としては古典の再創造を繰り返すことがしだいに多くなり,歌舞伎は〈古典演劇〉になった。とりわけ団十郎,菊五郎が相ついで没した1903年以後,歌舞伎の危機が叫ばれ,伝統の型の記録と保存の必要が唱えられるようになった。この時代に演出が固定したことになる。しかし,これ以後も関東大震災,第2次世界大戦などに際して,しばしば危機が叫ばれながら,そのつど不死身のようによみがえって,こんにちまで商業演劇としての中心的地位を譲ってはいない。
66年に国立劇場が設立され,国家の重要文化財としての見地から,歌舞伎を保護育成し,その調査研究を促進し,同時に次代の歌舞伎を担う俳優を養成する体制がととのいつつある。また,松竹株式会社の尽力により,国際文化交流の一環として,歌舞伎はしばしば海外公演の機会を持っている。その結果,現在では国際的に正当な評価を得るに至っているといえよう。
歌舞伎は三百数十年に及ぶ長い歴史を持つこと,江戸と上方との文化の質的な相違なども関係して,内に数多くの様式を持っている。その点で,かつて坪内逍遥がギリシア神話のカイミーラ(キマイラ)にたとえたのは巧みな比喩であった。武智鉄二は次の12の様式に分類した。すなわち,(1)坂田藤十郎を頂点とする元禄歌舞伎,(2)市川団十郎を中心とした荒事,(3)義太夫節と操り芝居とから派生した歌舞伎,(4)義太夫狂言(丸本物)の影響から直接に生まれた歌舞伎,(5)豊後節系統の演劇,(6)義太夫狂言を写実化したもの,(7)南北を頂点とする市井写実劇,(8)能の様式を模倣した作品,(9)黙阿弥の新音楽劇,(10)団十郎の活歴,(11)狂言の影響を受けた舞踊劇,(12)2世左団次による外国演劇の影響を受けた新歌舞伎劇,の12種である。厳密にいえば,演技・演出はそれぞれの様式によって異なっているわけで,非常に多様である。しかし,ごく基本的な部分ではそれらの全般にわたってほぼ共通する。
歌舞伎は基本的な構造としては,俳優の演技,すなわち〈芸〉を中心にして展開するものである。その〈芸〉は,舞踊的要素を基底に持って様式化された演技である。これは,歌舞伎踊から出発したこの芸能が歴史的に担った性格であるとともに,能・狂言や人形浄瑠璃の影響を受けた結果である。江戸末期の〈生世話〉も徹底した写実主義の演劇になったわけではなかった。たとえば,正面を向いてする演技,見得,立回り,だんまりといった様式,大道具,小道具,化粧,扮装などは,いずれも絵画的もしくは彫刻的な景容の美しさを目標とし,下座の音楽や効果,ツケの類は写実性を目ざすものではなく,情緒的な音楽性をねらい,あるいは擬音を様式化して誇張したものである。どんな場面の,どんな演技・演出も,舞台に花があり,絵のように美しい形に構成されていなければならない。
歌舞伎の演技は,近代劇のそれのように戯曲によって強く制約されるものではない。逆に,演技術そのものに多数のパターンがあり,それをストーリーの中に組み合わせ展開させるという方法によって劇が仕組まれていくのである。〈傾城事〉〈怨霊事〉〈物語〉〈身替り〉〈やつし〉〈濡れ場〉〈責め場〉〈縁切り場〉〈殺し場〉〈強請場〉など,演技上の類型が劇全体における局面構成の類型と結びついている例である。劇的に高揚した一瞬に,ツケを打たせ静止したポーズにきまる〈見得〉,舞踊性の濃い〈だんまり〉や〈立回り〉,戯曲とは関係なく歩く芸そのものの迫力や美しさを見せる〈丹前〉や〈六方〉などは,写実主義による西欧近代劇と構造的に異質な歌舞伎が育て上げた独特の演技様式である。〈せりふ〉も同様で,それぞれの様式に独自の一種のリズムを持つ。〈つらね〉や〈言立て(いいたて)〉のようにしゃべる技巧,〈糸に乗る〉という音楽的に語る技巧,〈厄払い〉のように七五調の美文を朗々とうたいあげる技巧などのほか,幾人かでせりふを分けあう〈割りぜりふ〉や〈渡りぜりふ〉の技法もある。せりふを登場人物相互の意思伝達の用とだけ限定せず,観客の聴覚に訴える効果音的な用法に至るまで,自由に活用していることがわかる。
歌舞伎における音楽の重要性は,前記のごとくせりふもその意図のために用いる例があるが,楽器や道具を使って奏する伴奏,効果の音楽は大別して3種類になる。第1は,舞台下手(古くは上手)の〈黒御簾(くろみす)〉の中で演奏する〈下座音楽〉であり,これは観客からは見えない。下座は,唄,三味線,鳴物の3種によって構成されている。鳴物は小鼓,大鼓,太鼓,笛および大太鼓を主要楽器とし,ほかに数十種に及ぶさまざまな楽器を補助楽器として使う。それらがいろいろの組合せで演奏され,その場面にもっともふさわしい雰囲気をかもし出したり,風,雨,雪などの擬音も受け持つ。人物の出入りや,独特な場面または局面のパターンには,定式的な伴奏の手法が伝えられている。
第2は観客から見える場所で演奏する音楽で,これは下座音楽のように劇の進行を助けるための伴奏ないし効果の域にとどまらず,俳優の芸と対等のものとして,演奏者個人の〈芸〉を聴かせる性格が強い。〈竹本〉(チョボ)と呼ばれる義太夫節の場合は,本来は上手(かみて)の2階にある御簾の内で顔を見せずに演奏したものであったが,後に上手の床(ゆか)で〈出語り〉をすることも行われるようになった。長唄と囃子は舞台正面の〈雛段(ひなだん)〉に,常磐津は下手,清元は上手にもうける〈山台(やまだい)〉で演奏するのを原則とする。長唄と囃子のそれを〈出囃子(でばやし)〉,浄瑠璃系のそれを〈出語り〉と呼ぶ。
第3は〈柝(き)〉(拍子木)と〈ツケ〉である。〈柝〉は,幕明き,幕切れ,道具替りのきっかけなどを知らせる合図である。同時に,俳優の楽屋入りを告げる〈着到(ちやくとう)〉や,楽屋内に開幕を知らせる〈二丁〉,道具の転換をつなぐ〈ツナギ〉などには定まった打ち方をする。〈柝〉は,観客,俳優その他すべての劇場関係者に対する進行状況の告示を本来の役割とするものである。司会進行役の性格を持つ〈柝〉の打ち手は狂言作者である。ツケは,役者の〈芸〉そのものに密着した影の部分を表現するものとして,下座音楽と区別されている。立回りや見得のきまりきまりに打ち,きっぱりとした,鮮明な印象づけを意図するほか,たとえば人間の走る足音や,物を落としたときにそれを観客にはっきりと聞かせる擬音としての打ち方も行う。これも上方では狂言作者(東京では古くから大道具方がつとめる)の任務である。
化粧,衣裳,鬘は,様式と人物の役柄とによって,それぞれ定式になっている独自のものを用いる。荒事の〈隈〉(隈取)はそれを取る役の性格によって,色と形の基本に違いがある。正義と勇気を表すのが〈紅隈〉と呼ぶ赤い隈,超人的な悪を表現するのが〈藍隈〉である。また,二枚目の〈白塗り〉,敵役の〈赤っ面〉などのように,顔の化粧の色によって,ただちに役の類型がわかるものが多い。歌舞伎の化粧の特徴は,全体をむらなく塗ることで,陰影をつけるなどリアルな表現をねらわない点である。〈顔をこしらえる〉と呼ぶこの独特な化粧法は,かつて共同体の祭りに際して村人が神に変身を果たした古い芸能伝承を,無意識のうちに受け継いだものではなかったかと想像される。
鬘にも役柄によって定められた類型がある。実事の役に使う〈生締(なまじめ)〉,大盗賊の〈百日鬘〉(大百(だいびやく)),傾城の〈立兵庫(たてひようご)〉,御殿女中の〈片はずし〉などは代表的なもので,基本的なもの数十種と,それらの部分の組合せによる膨大な数の種類がある。上にあげたような代表的な鬘は,鬘の名がそのまま役の性格を示すようになっているのを見ても,歌舞伎の演技・演出の中に鬘が占めている重要性が理解できよう。
大道具や小道具も,特殊な例外を除いては写実を避け,様式性を重んじて製作される。定式(じようしき)の大道具の基本は〈二重〉と〈張物〉から成り立っている。〈二重〉は高さに4段階があり,〈高足(たかあし)〉〈中足(ちゆうあし)〉〈常足(つねあし)〉〈尺高(しやくだか)〉と呼ぶ。その上に屋体(やたい)を組むほか,土手なども作る。むろん平舞台のまま背景や切出しを飾ることもある。ほかに,鳥居,門,木戸,柴垣,立木の類の置物を配する。桜,梅,紅葉などの〈釣枝(つりえだ)〉を舞台の上から吊り下げたり,灯入りの月を出す大道具のくふうもある。また,鬘に〈がったり〉といって髷(まげ)の根が落ちて形が崩れる仕掛けや,《東海道四谷怪談》の〈髪梳き〉で使われる,髪が抜け落ちる仕掛けなどがあり,衣裳に〈引抜き〉や〈ぶっ返り〉の仕掛けがある。大道具には,〈屋体くずし〉や〈煽り返し(あおりがえし)〉の特殊技法のほか〈提灯抜け〉〈仏壇返し〉などの仕掛けも行われている。これらは,歌舞伎の筋立ておよび演出の複雑化にともなって次々とくふうされたものであるが,基本的には舞台上に起こるさまざまな非日常的な出来事を,可視的な形として観客に見せようとする歌舞伎の性格にもとづいて発想され創案されている。
古典的な歌舞伎の演出には,特定の作品ごとに固定した〈型〉と呼ぶものがある。とくに丸本歌舞伎系の時代物では,〈型〉の固定が著しく,〈型物〉と呼ばれる作品群もある。〈型〉は,歌舞伎が長い期間にわたり幾多の俳優たちによって繰り返し上演された結果,くふうにくふうが重ねられ,洗練に洗練が加えられ,さらに厳しい取捨選択が行われて現代に伝承した,いわば決定版的な性格を持つ〈演出〉のことである。ただし,現代に伝わっている〈型〉は一種類だけとは限らない。ごく普通に行われているのは近代以後一種に定まってしまっているものでも,ときには変化をつけるために別の〈型〉を採用することもある。〈型〉には,〈市川家の型〉〈音羽屋型〉〈成駒屋型〉などというように,俳優の家系によって伝承されている〈型〉,〈仲蔵の型〉〈5代目幸四郎の型〉〈9代目団十郎の型〉〈芝翫型〉などというように特定の名優が創出し完成させた〈型〉,〈江戸の型〉〈上方の型〉のように地域に伝承し,その地方的特徴をよく体現している〈型〉などがある。また,一狂言全体の演出のすべてが〈型〉となっている例と,ある場面の演技の形や手順や心得だけが〈だれそれの型〉と称して伝承されている例の別がある。
〈型〉は,その狂言の主役となる俳優の演技を中心にして定まっている。そして,役に即していえば,鬘,化粧,衣裳の色や模様,演技の形や手順,小道具の扱い方など,全体の演出の面では大道具,鳴物に至るまで細かく定まっている。〈型〉の存在は,古典演劇としての歌舞伎を将来にわたって規範を崩さずに守っていくためにきわめて重要な意味を持っているが,それらの中には偶然の機会から解釈を誤った演出や,中心となる俳優の仕勝手から生まれた悪い演出が,検討されることなく盲目的に伝承されている例もないとはいえない。〈型〉はつねに問い返されることによって新しく生きる。それが〈型〉に入って〈型〉を出るということである。〈型〉が歌舞伎の演技・演出の根幹となっている以上,今後の創造の中で十分検討が加えられる必要もあるだろう。
歌舞伎の作品をごく大まかに分類すると,丸本物(丸本歌舞伎,義太夫物),純歌舞伎,所作事(舞踊劇)の3種類になる。ただし,所作事はそれだけで独立した作品となるもののほかに,丸本物や純歌舞伎の中に仕組まれている作品もある。
丸本物は,はじめ人形浄瑠璃のために書かれた戯曲を歌舞伎向きに移しかえた作品群で,《仮名手本忠臣蔵》《菅原伝授手習鑑》《義経千本桜》《夏祭浪花鑑》などはその代表作である。純歌舞伎が原則的に上演のつど新作されたのに対し,これは幾度となく上演が繰り返されたため,しぜん演技・演出の細部に至るまでくふうや洗練が加えられ,様式的に確立している。いっぽう,純歌舞伎は,歌舞伎のために書きおろされたオリジナルの作品で,《助六由縁江戸桜》《鳴神》《暫(しばらく)》《五大力恋緘(ごだいりきこいのふうじめ)》《隅田川花御所染》《東海道四谷怪談》《桜姫東文章》《与話情浮名横櫛(よわなさけうきなのよこぐし)》《青砥稿花紅彩画(あおとぞうしはなのにしきえ)》《曾我綉俠御所染(そがもようたてしのごしよぞめ)》などが,その例である。
次に,ストーリーのもとになっている事件,登場人物の役名や性格などによって分類するときは,〈時代物〉〈世話物〉〈お家物〉に大別する。時代物は,中世以前の公家や武家社会の事件を背景とした作品群で,江戸時代の庶民の日常生活の身近なところで起こった事件を扱う世話物に対する用語である。細分化すると,《菅原伝授手習鑑》や《妹背山婦女庭訓》のように王朝の公家社会を題材とする〈王朝(代)物〉,《一谷嫩軍記》《ひらかな盛衰記》《本朝廿四孝》《奥州安達原》《近江源氏先陣館》《絵本太功記》などのほか,数々の曾我兄弟の仇討を扱った狂言のように,源平合戦から戦国時代に至る戦乱を背景として武士社会を中心の題材とする作品群(これが狭義の時代物である),そして《仮名手本忠臣蔵》《伽羅先代萩》《加賀見山旧錦絵》のように,江戸時代に諸大名の藩中で起こった事件を扱う〈お家物〉の3種類に分けることができる。もっとも,〈お家物〉は,本来〈時代物〉〈世話物〉〈お家物〉と並んで独立する概念であるが,元禄期の狂言を除いては,当時実際に起こった事件を劇化することが禁じられていたため,たとえば《忠臣蔵》が〈太平記の世界〉に仮託し,高師直,塩冶判官の役名をかりて脚色したように,形式上は〈時代物〉に包含されるのである。いっぽう〈世話物〉は,江戸時代の庶民の実生活の中で起こる事件を扱う作品群である。これを,一般的な〈世話物〉(心中,俠客,角力などを扱う)と,文化・文政期(1804-30)以降の江戸で生まれた〈生世話〉に分ける。《曾根崎心中》《心中天の網島》《宿無団七時雨傘(やどなしだんしちしぐれのからかさ)》《五大力恋緘》《夏祭浪花鑑》《双蝶々曲輪日記(ふたつちようちようくるわにつき)》などは前者の例,《東海道四谷怪談》《八幡祭小望月賑(はちまんまつりよみやのにぎわい)》《鼠小紋東君新形(ねずみこもんはるのしんがた)》《三人吉三廓初買》《蔦紅葉宇都谷峠》などが後者の例である。もっとも,鶴屋南北や河竹黙阿弥など,江戸作者の手になる世話物は,全体の構想が時代物ないしお家物の世界にからませてある場合が多く,演技や演出もおのずから一般の世話物より様式化されたものになるので,それらを厳密にいうときは,〈時代世話〉または〈お家世話〉と呼ばねばならないものが多い。歌舞伎の作劇には長い歴史があるために社会情勢に従っての変遷があり,厳格な概念規定による分類は行いがたいことも生ずる。たとえば,江戸時代の狂言では〈時代物〉に分類されるべきお家騒動の題材も,幕末以降実録本によっての作劇が可能になった時代の作品においては〈お家物〉と呼ばなければならないなどの例がある。
所作事は,地となる音楽の種類によって分類される。長唄,常磐津節,清元節,富本節,竹本などによる作品がある。また,長唄地の女方舞踊として独立したもの(《娘道成寺》《石橋》など),一日の長い狂言の中から舞踊場面を独立させたもの(《道行旅路の嫁入》や《道行初音旅》の類)や,顔見世狂言に挿入されて初演された劇舞踊を独立させたもの(《関の扉》《戻駕》《吉原雀》《蜘蛛拍子舞》など),変化舞踊(変化物)として創作されたものの一曲を独立させた作(《鷺娘》《藤娘》《手習子》《羽根の禿》《保名》《小原女》《文屋》《喜撰》など),能や狂言から材を採ったもの(《石橋》《紅葉狩》《土蜘(つちぐも)》《棒しばり》《身替座禅》の類)のように分類することもできる。
右の分類に入りきらない作品として,近代以後に作り出された〈活歴物〉〈散切物〉および〈新歌舞伎〉などの様式による作品群がある。このうち,〈活歴物〉は〈時代物〉に,〈散切物〉は〈世話物〉に含めて考えるのが一般的である。〈新歌舞伎〉には,その両方に入る作品がある。
歌舞伎の作品の構成について考えるとき,しばしば〈世界〉と〈趣向〉という概念が用いられる。これは元来江戸時代の狂言作者が作劇法の基本とした構成法であった。したがって,複雑で整理しにくい膨大な量の作品群を,系統別に分類する際にも有効な概念である。〈世界〉とは,作品の背景になる時代,政争,合戦,お家騒動,けんか,恋愛などの事件,人物の役名と基本的な立場や行動,主要な局面などを規定し,かつ制約するストーリーの大枠のことをいう。〈平家物語の世界〉〈曾我物語の世界〉〈太平記の世界〉〈お染・久松の世界〉〈清玄・桜姫の世界〉のようにいう。〈趣向〉は,新しい作品が構想されるとき,立作者によって新たに創案される部分で,たとえば〈身替り〉〈過誤の殺人〉〈取替え子〉〈縁切〉〈子別れ〉などのように,すでに類型化していた〈趣向〉を利用して新しい〈趣向〉にすることも行われた。一般に,〈世界〉は動かないものであり,これに即しながら自由奔放に〈趣向〉を動かすことによってまったく新しい作品を作り出すこと,これが狂言作者の仕事とされていた。〈趣向〉がすなわち作者の個性であり,作品の生命であったといえる。
先行のある作品を念頭に置き,その場所,登場人物の立場や男女,主要な局面構成などを変更する作劇法があり,これを〈書替え〉といい,その方法によって作られた作品を〈書替狂言〉と呼んだ。すぐれた〈書替え〉は,パロディに似た効果をあげている。また,二つ以上の〈世界〉を強引に一つの作品の中で混ぜ合わせることによって,ストーリーを複雑にし,奇抜な物語を作り出す作劇法を〈綯交ぜ(ないまぜ)〉といい,中期以降の江戸の作者によって,しばしば用いられた。
歌舞伎は俳優の芸を中心として成り立つ演劇であった。したがって,俳優が歌舞伎の構造の上に占める位置はきわめて大きかった。しかし,社会的には河原者,河原乞食などと呼ばれ,士農工商の四民以下に属させられていた。彼らは一般には〈役者〉と呼ばれた。社会的にいやしめられる身分であったが,大衆の側からは人気スター,市井の英雄としてあこがれられる存在であり,名優は破格の高給を得て,豪奢な生活をしていた。そのぜいたくな生活ぶりが,しばしば幕府の弾圧を受けている。役者の給金(身上(しんしょう))は,江戸時代には年給で定められ,最高額の基準を1000両としたことから〈千両役者〉の称も生まれた。実際には,千両を超す年給を得る役者もいた。寛政期(1789-1801)に,あまりの年給高騰に音をあげた興行者側が幕府に願い出て,命令によって最高額を500両に押さえるという事態も招いた。それでもなお,加役料,よない金などの名目で給金の上乗せが行われ,実質は700両,800両を取る役者が何人もあり,やがてもとのままに復してしまう。
役者は芸名のほかに,屋号(表1参照)と俳名(はいみよう)を持っていた。市川団十郎を成田屋三升(さんじよう),尾上菊五郎を音羽屋梅幸,沢村宗十郎を紀伊国屋(きのくにや)訥子(とつし),中村歌右衛門を成駒屋芝翫(しかん)というように,通人は役者を屋号と俳名とで呼ぶこともあった。屋号,俳名は,ともに社会的に不当に差別されていた役者たちが,一般町人や文人と対等の社交をするうえでの称号であったと考えることもできる。現代の俳優は俳句を教養としてたしなむ人も少なくなり,その社会的地位も向上しているので,俳名の必要性はなくなった。屋号は役者の〈家〉観念重視の象徴となり,家紋とともに現代にあっても強く意識されている。〈大向う〉からの〈掛声〉は観客が贔屓(ひいき)役者にかけた〈褒め詞〉の変型であろうが,このときに芸名を呼ばず,屋号を呼ぶ伝統はいまも生きている。役者は〈家の芸〉の伝承と創造にかかわる家系,門閥を格別に重んじる。芸名は幼名にはじまり,あたかも出世魚のごとく一定の段階を踏んで次々と改められていく例が多い。そのほとんどの名前(名跡(みようせき))は世襲で,実子,養子,兄弟,実力のある高弟などによって襲名される。役者は年齢的にも,芸の実力や人気の面でも成長したと認められたとき,あるいは父の急死によって後継者の成長が待望されるときなどに,一段上の芸名をつぐ。これによって,周囲の見る目も変わってくるし,興行者の待遇もよくなる。従来よりいい役が付くことにもなる。むろん本人の自覚あってのことであるにしても,襲名は確実に役者を脱皮させ,大きく成長させる。そこが歌舞伎役者の不思議なところである。大幹部や花形役者の名前が並ぶだけで,おのずからはなやかなイメージが生じるのも,役者の名跡が持つ特別の魅力によっている。
歌舞伎役者は〈役柄〉によって分かれていた。江戸時代中期以前には,〈立役〉〈若女方〉〈若衆方〉〈敵役〉〈実悪〉〈道外方〉〈親仁方〉〈花車方〉などの分業が確立しており,一人一役柄の原則が守られていた。〈若衆方〉や〈若女方〉の役者の中で,年齢的に無理になったと判断して他の役柄に転ずる者もあったが,その転向には厳しい目が向けられており,また二つの役柄に同時に属するといったことはありえなかった。役者評判記は,まず役柄によって部を立て,それぞれの部の中で役者に位を付けて並べ,個々に批評を記す形式が確立していた。中期以降しだいに一人一役柄の原則が崩れ,文化文政のころになると,一人の役者がいくつもの役柄を兼ねて演じ分けることを良しとする風潮さえ生まれた。3世中村歌右衛門から,〈兼ねる〉というのを名優の名誉ある称号であるとすることも始まった。現在では,その俳優の芸風や人柄(にん)(容姿をもとにした芸域),年齢などによっておのずから制約されるが,そのかぎりではいくつかの役柄を兼ねる例が多い。
現在は,〈役柄〉という用語の概念が広義に使用されるようになり,〈役どころ〉というのに相当する役の類型を意味している。現在,歌舞伎作品の様式の中にあり,独自の演技術(鬘,化粧,衣裳,せりふ術,演技などを含む)を必要とする〈役柄〉の種類の例は,表2のようになる。
歌舞伎の役柄の中で,とくに女方の存在は歌舞伎の特色の一つとして特筆に値する。女方は,幕府による女性芸能者いっさい禁止の結果,やむをえぬ手段として成立したのであるが,古代以来日本の芸能史では〈物真似〉の芸はすべて男性が受け持つ伝統があったために,比較的すなおにこの特殊な役柄が定着したのであった。元禄期の初世芳沢あやめ,享保期の初世瀬川菊之丞らの芸談や逸話を見ると,彼らが女性の物真似を徹底するために,日常を本当の女性の心で暮らすことなど,肉体を責める厳しい修業をみずからに課していたことをうかがい知ることができる。
歌舞伎の劇場は,江戸時代には〈芝居〉または〈芝居小屋〉と呼ばれていた。発生的に見ると,初期の女歌舞伎,若衆歌舞伎の時代には先行の勧進猿楽の舞台を襲用し,見物席は屋根を持たない〈芝居〉(芝の生えている場所の意)であった。屋根の付いた桟敷(さじき)が発生すると,これに対する見物席の称として用いられたが,やがて劇場全体を指し,さらにはそこで演じられる演劇自体をも〈芝居〉と呼ぶに至ったのである。最初,周囲は竹矢来を組んだ上に莚(むしろ)をかけた虎落(もがり)で囲み,中央に高く櫓を構え,その下に鼠木戸(〈鼠戸〉とも)という狭い出入口を2ヵ所設けただけの簡単なものであった。やがて,囲みは板囲いに変わり,舞台は方2間(約3.6m)から方3間に広がったうえ,付舞台が生まれて,しだいに広くなっていった。見物席と舞台との全体を覆う,いわゆる全蓋式(ぜんがいしき)の劇場が許可されたのは1718年(享保3)からのことである。
舞台機構で注目すべき特色は,花道と回り舞台を備えていることである。花道は,初期歌舞伎が襲用した能舞台における橋掛りの〈道としての機能〉が,舞台全体の拡張の中で失われていったのに代わり,見物席を貫通する形で出現したものであり,はじめは仮設のものだったらしいが,享保期には常設の機構として確立している。花道は,舞台の延長であったり,舞台とは別の空間であったりして,〈歩く芸〉を印象強く見せるのに効果的に用いられる。役者と観客との親しみや交歓のためにも有効である。作品によっては,東の方にある〈東のあゆみ〉を花道としても利用し,〈東の花道〉と呼ばれた。近代になって,〈本花道〉に対する〈仮花道〉の称も用いられるようになった。これは,ふだんは設けていない東の花道を,とくに仮設するようになって以後の名称である。〈本花〉〈仮花〉と略称することもある。花道を使っての出端(では)や引込みの六方,またたとえば《妹背山婦女庭訓》の吉野川の場や《鞘当》の不破名古屋の丹前の出のように両花道を効果的に使う場面などは,花道という機構を備えている歌舞伎ならではの魅力溢れる演出となっている。なお,江戸時代の劇場の花道は,揚幕を出たところで直角に折れていた。〈七三〉の位置は,現在は舞台から3分,揚幕から7分(実際にはもっと舞台に近い)となっているが,古くは揚幕から3分の位置だったといわれる。花道にある〈スッポン〉は原則として人間以外の精や霊,妖怪,怨霊,忍術使いなどの出入りに用いる〈セリ上げ〉〈セリ下げ〉の機構である。すなわち,花道を歩かせない形で,効果的,印象的に役者を出没させるために案出されたものにほかならない。
回り舞台は,江戸中期の1758年(宝暦8),大坂ではじめて大劇場で使用された。初世並木正三の業績とされる。これによって,舞台の転換がスピーディに行えるようになり,作劇の面でもいっそう自由な場面構成を採ることが可能になった。舞台機構の発達が,すなわち歌舞伎という演劇の発達をうながしたのである。〈セリ〉〈がんどう〉〈田楽(でんがく)〉〈引道具〉の発明など,舞台機構の発達は著しかった。
観客席は,初期にあってはのちの土間(どま)に相当する〈芝居〉と貴人のための〈桟敷〉との区分しかなかった。時代が下ると複雑な区画が生ずるが,それにしても基本は,上の見物のための〈桟敷〉,下の見物のための〈土間〉の2区分が意識されていた。江戸中期に,劇場の建築および内部様式が確立する。それ以後,東西の二階桟敷,一階桟敷(〈鶉(うずら)〉ともいう),向桟敷(むこうさじき),平土間,切落し,中(ちゆう)の間,羅漢台,吉野などの区別が生まれた。
1872年(明治5)都心に進出した新富座で,外国の劇場の影響を受け,一部椅子席を設置して以後,従来の仕切枡(しきります)の制度はしだいになくなり,やがて桟敷席以外はすべて椅子席になった。現在では,国立劇場のように桟敷席を持たない歌舞伎劇場さえ登場するようになった。
一方,舞台の間口は江戸時代には6~7間(約11~13m)を理想としたものであるが,現在の歌舞伎座が15間,国立劇場(大劇場)が12.2間と約2倍に長くなっている。これは,近代の大劇場主義と奥行をそれほど延ばさないで観客席を広くしようと意図した興行師による改革であり,結果的に歌舞伎の質を変える方向につながった面を否定できない。
また,1911年に帝国劇場が創設されたとき,西欧流の本格的な額縁式舞台となり,歌舞伎劇場独特の伝統的な張出し舞台は姿を消してしまった。
江戸時代の初期には,興行はわりあい自由に行うことができたが,幕府の庶民生活に対する弾圧が厳しくなるのにつれて,しだいに興行権にも制限が加えられるようになった。興行は願出によって免許を与える許可制で,興行権を与えられた者だけが〈櫓(やぐら)〉をあげて興行することができた。江戸では,元禄期には中村座,市村座,山村座,森田座の4座が官許の劇場として,それぞれ堺町,葺屋町,木挽町5丁目で興行を行っていた。このうち,山村座は,1714年(正徳4)の江島生島事件によって興行権を奪われたため,3座だけとなり,以後明治に至るまで〈江戸三座〉の制が守られていた。もっとも,中村,市村,森田の3座が都合によって興行不可能のときに限り,あらかじめ定めてある者が代わって興行することが許されていた。中村座には都座,市村座には桐座,森田座には河原崎座が代わりうる定めであった。中村,市村,森田の3座を〈元櫓(もとやぐら)〉(〈本櫓〉とも),都,桐,河原崎の3座を〈仮櫓(かりやぐら)〉(〈控櫓〉とも)と呼んだ。このほか,例外として玉川座が許可されたことがある。
上方の劇場は,大坂では1653年(承応2)に六つの劇場の興行が許されたが,元禄期には京都,大坂ともに四つになった。これも,幕末にはごく少なくなり,大劇場は京都では四条北側,南側の2座,大坂では道頓堀の中の芝居と角の芝居だけとなっている。
これら常設的な大劇場(町奉行の支配を受けた)のほかに,宮地や社地には寺社奉行の支配下にある小芝居が数多く存在した。これらを〈笹櫓〉〈宮地芝居〉〈百日芝居〉などと称する。
興行の機構は,江戸と上方とでは違いがあった。江戸では,興行権を与えられた者(中村勘三郎,市村羽左衛門,森田勘弥)を〈座元〉(太夫元)といい,世襲制であった。〈座元〉は興行権の所有者であり,実質上の興行師であり,劇場の持主でもあった。興行上の経費は複数の〈金主〉に出資してもらうのであるが,座元の権威は絶対的なもので,芝居関係者から格別の尊敬を受けていた。
これに比して上方の場合は非常に特色があった。まず〈名代(なだい)〉という者の存在である。〈名代〉は興行権の所有者である。江戸の場合,〈名代〉がすなわち〈座元〉本人であったから,とくに〈名代〉の名義を必要とはしなかったが,上方ではこれとは別に〈座本〉がいたため,〈名代〉が重要な意味を持ったのである。
〈座本〉は本来は興行師であった。しかも芸の実力と人気を兼備した役者であった。〈座本〉になる役者は,初期には道外方や親仁方といった老巧の脇役者であったが,しだいに立役がとって代わり,さらに若手の人気役者へ移っていく。その過程で,興行師としての手腕のまったくない座本が出て,興行不振に陥ったとき,役者座本に代わって実質上の興行者になったのが〈芝居師〉(のちの〈仕打(しうち)〉)である。そして,座本は単なる興行上の名義人の地位に落ちる。一方の〈名代〉は,興行をするためにはどうしても必要な名義であるから,株のようになり,実質上の興行者の間で売買され,転々と移動したものである。〈名代〉の名義人は,その売買や使用料によって収益を得ていた。
次に劇場の建物である。劇場は〈名代〉とは関係なく,やはり官許制によって制限されていた。そこで,〈銀方〉の出資を受けたうえ,〈名代〉〈座本〉〈劇場主〉の3者の提携が成って,はじめて正式に奉行所に文書を提出し,興行の許可を求める手続をすることができたのである。
江戸の場合は興行の中心に〈座元〉がいて,興行上の負担のすべてが,最終的に座元個人の上にかかってきた。それに対して上方の場合は,不入りで損害を被ったとき,個人の負担が3者で分割され,比較的軽く済むという利点があった。それだけ,格式よりも合理的な計算を土台にした分業のシステムだったといっていいであろう。
前述のとおり,江戸時代には役者との雇用関係は1年契約が原則であった。これと関連して,興行のシステムも1年間を1サイクルとして行われていた。毎年11月が新年度の初めで,役者との契約期間も,11月から翌年10月までの1年間とした。そこで,年度最初の興行を〈顔見世興行〉と名づけ,新しい座組の顔ぶれや作者の力量を披露するのに重点を置く特別興行を行った。興行者は年間の興行成績を占う意味からこの興行の成功に心を砕き,数々の行事や看板,積物など劇場の装飾によって前景気をあおりたてた。劇場と運命共同体の関係にあった芝居茶屋も屋根びさしの上にそれぞれ趣向を凝らした作り物を飾り,無数の提灯を吊って,芝居町全体がはなやかな祭りの雰囲気に包まれるように演出した。狂言は〈顔見世狂言〉と名づける独特な作劇法に即した狂言で,多彩な顔ぶれの役者を見せるのにふさわしい〈世界〉を選び,ストーリーよりも,役者個々の〈時代事〉と〈世話事〉との両面の演技を十分魅力的なものとして引き出し,観客に見せることに主眼が置かれていた。江戸では,必ず〈暫(しばらく)〉の場面が入るなど,儀式的な色彩も濃い。
年が改まると,各座新狂言を出す。江戸では〈初春興行〉といい,享保期以後は各座とも曾我狂言を上演することが習慣となって定着した。上方では〈二の替り〉と称し,年間の興行のうちもっとも演劇的な内容を重視した狂言を演ずることとし,必ず廓の場面がある約束で,外題に〈けいせい(傾城,契情)〉の文字を含ませる習慣があった。江戸の例でいうと,初春興行の曾我狂言に立てた大名題はなるべくそのまま残し,3月の〈弥生(やよい)興行〉,5月の〈皐月(さつき)興行〉には,一番目の不評の場を抜いて二番目,三番目を出していき,5月28日の曾我祭まで行くことができれば大成功としたものである。しかし,3月3日初日で陽春の季節にふさわしいお家騒動物や《助六》などを出し,5月5日からまた狂言を差し替えることが多かった。上方では,〈二の替り〉の興行成績を見ながら,だいたい3月ごろに〈三の替り〉の新狂言を出した。これは〈二の替り〉よりは軽い内容がいいとされていた。
6,7月は原則として芝居を休んだが,のちには〈夏芝居〉といって,ふだんは大役をもらえない低い地位の役者を中心にし,入場料の安い勉強芝居を興行することがあった。文化・文政期になると,大立者も参加して,夏向きの狂言を演ずる特別興行を行うこともあった。9月は〈秋興行〉または〈菊月興行〉と呼び,年度における最後の興行であることから〈御名残興行〉ともいった。秋は時節の気分に合わせて,しんみりと落ちついた狂言が演じられた。丸本物の狂言がよく上演されたのは,その条件にかなったからである。このように,劇場の興行は一種の年中行事のような約束を踏まえて運営されていたのである。
上記の興行のほかに,正月1日の仕初め(しぞめ)(式三番叟),2月初午の稲荷祭,5月28日の曾我祭,6月の土用休み,9月12日の世界定め,10月17日の寄初(よりぞめ),12月10日ごろの顔見世狂言舞納(まいおさめ)などを加えて,〈芝居年中行事〉と呼んでいた。
劇場が毎月一興行を行うようになったのは大正以後のことで,松竹は専属俳優を毎月出演させる慣習を作った。
歌舞伎は,その出発点においては市井のかぶき者やかぶき女の風俗を模倣し,さらにそれを洗練したり誇張したりして舞台にのせた。髪形,衣裳の形,色,模様,帯の形や結び方などがそれである。しかし,それらはただちに市民一般の風俗の方へ投げ返され,流行をもたらすこととなった。歌舞伎風俗の一般への影響は,服飾上のあらゆる分野に及んだ。
髪形についてみると,男性の髪形として〈伝九郎糸鬢(いとびん)〉〈辰松風〉〈文金風(浄瑠璃語り宮古路豊後掾の風)〉〈路考鬢〉〈仲蔵鬢〉など,女性の髪形では〈路考髷(まげ)〉〈大吉髷〉などが有名。〈古今帽子〉〈沢之丞帽子〉〈やでん帽子〉〈水木帽子〉〈あやめ帽子〉〈瀬川帽子〉など,女方役者が考案した女性の被り物も流行した。一時的であるが,男性用として,〈宗十郎頭巾〉などが流行したこともある。
帯の結び方では〈吉弥結〉〈路考結〉など,小物では〈岩井櫛〉がとくに有名である。ひいき役者の定紋や替紋を櫛,簪(かんざし),手鏡などに付けることが宝暦(1751-64)以後盛んになり,明和・安永・天明期には異常なまでの大流行を示した。
その種類が多様で,広範囲にわたって流行し,かつ次から次へと新しいものが生み出されながら,それぞれが長期間にわたってもてはやされたのは,衣裳の色と模様であった。中期における人気若女方2世瀬川菊之丞の〈路考茶〉,立役の初世尾上菊五郎の〈梅幸茶〉は,江戸中期の通(つう)の美意識にかなう渋い中に色気の漂う色彩であり,春信や清長の描いた美人画の中によく登場している。時代が下り,3世中村歌右衛門の〈芝翫(しかん)茶〉,初世嵐璃寛の〈璃寛茶〉は,この上方の2名優のひいきが対抗して争ったことから,非常な流行を示した。ほかに,5世市川団十郎の〈升花色〉,5世岩井半四郎の好んだ〈岩井茶〉,5世松本幸四郎好みの〈高麗屋納戸(なんど)〉なども流行した。これらの流行色を見ると,緑茶色系統が圧倒的に多く,鼠,萌葱(もえぎ),納戸などがこれに次ぐ。いずれも渋く落ちついた地味な色である。これらは,江戸好みの色調の微妙なバリエーションなのであり,その微妙な味わいを好む繊細な心の働きが,役者びいきと結びついて,市井の流行色となってそれぞれ一世を風靡したのであった。
衣裳の模様は,もっとも多様な変化を示した流行風俗である。それらの中には,(1)役者が舞台である役を演じた際にくふうしたデザイン,(2)とくに役とは関係なく役者の〈家の模様〉として考案したもの,(3)舞台で使い始めたデザインがそのまま〈家の模様〉となったもの,以上の3種類のものが含まれている。早く1692年(元禄5)刊の《女重宝記》に,〈時のはやりもやうは大かた歌舞妓しばいより出づるなれば,これをこのみ着給ふも破手(はで)に見へて悪しく〉と書いてある。歌舞伎役者が舞台衣裳として考案した模様であるから,それを一般の女性が着用すれば,派手好みとして非難されたのは当然であろう。
これらの模様のほとんどは,染模様である。江戸中期以前の流行では,〈小太夫鹿子〉〈千弥染〉〈市松染〉〈亀蔵小紋〉〈小六染〉〈菊寿染〉〈仲蔵縞〉〈伝九郎染〉などがとくに有名である。江戸後期から幕末にかけての時代は,個性の強烈な名優が輩出したことと,歌舞伎そのものが庶民大衆に広く浸透し,芝居趣味,役者好みの傾向が広い範囲の人たちのあいだに定着したことが合致し,役者好みのデザインが次々と創出され,もてはやされた。〈半四郎鹿子〉〈万字つなぎ〉〈芝翫縞〉〈璃寛縞〉〈三つ大縞〉〈高麗屋縞〉〈三升つなぎ〉〈鎌わぬ〉〈菊五郎格子〉〈観世水〉〈六弥太格子〉〈花かつみ〉などが代表的なものである。
歌舞伎に源を持つ流行風俗の歴史をたどっていくと,そこには江戸歌舞伎,ひいては江戸文化の変遷の姿を反映しているのを確かめることができる。
執筆者:服部 幸雄
演劇雑誌。同名の雑誌が3種。第1期は歌舞伎発行所刊の1900年1月~15年1月まで全174冊。編集長は三木竹二から伊原青々園に引き継がれ,演劇全般を扱った。第2期は歌舞伎座刊の1925年5月~30年6月まで全50冊。吉田暎二(てるじ)のち田中貞の編集で,歌舞伎座の宣伝誌的性格を帯びた。第3期は松竹演劇部刊。1968年7月~78年4月。本誌は季刊で全40冊,随時の増刊。特集主義を採用。編集野口達二。
執筆者:大笹 吉雄
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
歌舞伎という表記は当て字であるが、歌(音楽)、舞(舞踊)、伎(伎芸)をそれぞれ意味し、日本独自の様式的演劇の特質を巧まずして表現しているため、今日では広く用いられている。かつて江戸時代には「歌舞妓」と書かれるのが普通であったが、もっと古くは「かぶき」と仮名で書かれた。漢字では「傾奇(かぶき)」であり、傾(かぶ)くという動詞の名詞形で、異風異装の者、したがってまた、流行の先端を行くとっぴな者などをさすことばであった。江戸時代の初め京洛(きょうらく)の巷(ちまた)に出現した新奇異風の芸能が「かぶきおどり」「阿国(おくに)かぶき」「女かぶき」などとよばれ、のちに「歌舞妓(伎)」の字があてられたのである。
歌舞伎は、ある種の民俗芸能が社会の表面に浮かび上がり、能狂言や人形浄瑠璃(じょうるり)(文楽(ぶんらく))の要素を吸収消化して、複雑な内容と様式をもつに至った庶民演劇で、一口にいえば、日本の伝統芸能を集大成したものといえる。それは、江戸時代という鎖国時代の町民文化の一つとして、町民の生活に密着した特殊な美を生み、歓楽の場として自由で雑多な成長発展を遂げた。歌舞伎は初めから市民の芸能として発生したため、舞楽や能のように整然と形象化、式楽化された芸術とは異なり、時代とともに変化し新しいものを加えてつねに生成発展する柔軟な生命力をもち、かつ現代にも受け入れられる普遍的な魅力も備えている。今日では、能、狂言や文楽と同じく、伝統演劇または古典芸能とよばれているが、明治以後も生きた演劇としての活力を失わず、現在なお大劇場で安定した興行価値をもっている点で、ほかの伝統演劇とはまったく違う。またこれを西洋演劇に比べるなら、ギリシア劇から近代写実劇に至る古典主義演劇の系譜とは別の、シェークスピア劇やスペイン劇、ロマン主義演劇ないし表現主義あるいはブレヒト劇のような、いわゆる非古典主義的バロック演劇に通ずるものということができよう。
[河竹登志夫]
歌舞伎の発達は、次の5期に分けてみることができる。
[河竹登志夫]
歌舞伎の始まりは1603年(慶長8)出雲(いずも)大社の巫子(みこ)と称する阿国(おくに)という女性が京都で演じた、念仏踊(ねんぶつおどり)とよばれる歌舞だとされ、これがまもなく当時巷(ちまた)にみられたかぶき者やキリシタンの風俗を取り入れた結果、「かぶきおどり」とか「阿国かぶき」といわれるようになる。その源流は、応仁(おうにん)の乱(1467~1477)以後の、「夢の浮世じゃ、ただ狂え」といった不安騒擾(そうじょう)の民心に迎えられて大流行し始めた「風流(ふりゅう)」である。これは、祭礼にちなむ民間芸能の一種で、女猿楽(おんなさるがく)、女曲舞(おんなくせまい)、白拍子(しらびょうし)など、平安時代から中世にかけて民間に流布した女性の諸芸能も影響していたと思われる。彼女らの一部は売春を兼ねて諸国を巡るいわゆる「あるき巫子(みこ)」でもあったろう。天鈿女命(あめのうずめのみこと)の岩戸舞のような神話時代は別として、女性芸能は仏教渡来以後、もっぱら庶民の底辺にだけ存在を許されていた。それが、北野神社や四条河原(しじょうがわら)など京都目抜きの地に、能と同じく社寺や仏像の建立を目的とした勧進(かんじん)興行として堂々と行われたということは、中世の呪禁(じゅごん)と戦乱から解放されたこの時代にして初めて可能なことであった。その意味で、芸能史上だけでなく、阿国かぶきの日本文化史上の意味はきわめて大きい。
阿国かぶきは能の舞台様式を踏襲し、道具や音楽も能に似て簡素で、初期には三味線も用いなかった。しかし、能とは本質的に異なっていた。たとえば念仏踊とはいっても宗教性は薄く、あらゆる流行、風俗、流行唄(はやりうた)を取り入れた即興的な歌舞だったこと、女性主体で仮面を用いず肉体的魅力を売り物としたことなどである。また歌舞のほかに猿若(さるわか)とよばれる男の道化(どうけ)役が出て滑稽(こっけい)な寸劇をしたりもしている。とりわけ市民の心を奪ったのは、阿国が自ら男装して、当時はやりだした「茶屋の女」に「戯る体(たわむるてい)」をみせたり、当時随一の伊達(だて)男といわれ惜しまれつつ死んだ名古屋山三(さんざ)の亡霊を登場させるなど、大胆な発想で最新のトピックスを取り上げ、濃厚な官能描写を試みたことである。この新奇な芸能は市民に受け、「かぶきおどり」とよばれるに至り、遊里の女たちもこれに追随して、類似の歌舞団が輩出し、女歌舞伎は全国に広まった。
しかし、この「女歌舞伎」は官能本位で遊女も兼ねていたため、「遊女歌舞伎」とも称されるに及び、幕府は風紀上の弊害を恐れて、1629年(寛永6)、音曲を演奏する地方(じかた)を含む女芸人いっさいが公衆の前で舞台に立つことを禁じた。阿国が出現してわずか26年で、それ以後1891年(明治24)新派で「男女合同改良演劇」が行われるまでの262年の間、日本の公認劇場には女優不在が続く。
女歌舞伎禁止によって隆盛をみたのは、若衆(わかしゅ)歌舞伎、すなわち前髪立ちの美少年による歌舞伎であった。すでに女歌舞伎と並行して存在していたものだが、かつて武家・僧侶(そうりょ)が稚児(ちご)猿楽や稚児延年(えんねん)を愛好したことからみれば、むしろこの若衆歌舞伎のほうが伝統的だったともいえよう。女歌舞伎の新鮮さの陰に隠れていたのが急に開花したのであったが、彼らも華美な風俗で官能本位の歌舞を主体とする点では女歌舞伎と大差なく、男色趣味のため社会的弊害はむしろ大きかったので、幕府は1652年(承応1)ふたたび禁令を発した。こうして一時歌舞伎はまったく姿を消す。しかし、すでに1615年(元和1)には京都に7か所の芝居小屋が許可されていたし、1624年(寛永1)には江戸に猿若座が創立されていたので、彼らは幕府に再開許可嘆願を続けた。その結果、1653年3月4日「再御免」となったが、風紀上の弊害を抑えるために二つの条件がつけられた。前髪を切ることと、歌舞を控えて「物真似(ものまね)狂言づくし」をやることである。そこで、前髪を切って月代(さかやき)を剃(そ)った頭にちなんで、これ以後を「野良(野郎)(やろう)歌舞伎」という。
[河竹登志夫]
この期は、元禄(げんろく)期(1688~1704)を中心として享保(きょうほう)(1716~1736)中期までである。野郎歌舞伎に与えられた2条件は、結果的には歌舞伎に演劇としての飛躍的発展をもたらした。必然的にドラマ内容の充実、写実芸つまり科白(かはく)(せりふとしぐさ)演技の熟達、女優や若衆にかわる女方(おんながた)美の創造などを促す条件だったからである。その現れの一つは、歌舞伎再御免から2年後の1655年(明暦1)の大道具師長谷川(はせがわ)勘兵衛の創業であろう。ついで1664年(寛文4)江戸と大坂で「続き狂言」すなわち多幕物の上演と、これに伴う引幕(ひきまく)の発明があった。1666年、花道の嚆矢(こうし)というべき中央「歩(あゆ)み板」が客席を貫いて設置され、その後急速に整備された。1717年(享保2)には、それまで半野外だった劇場が完全に屋根で覆われ、二階桟敷(さじき)も生まれ、歌舞伎独自の劇場の原型ができた。
狂言も当初は「口立(くちだ)て」式といって、口頭で大筋を打ち合わせて演ずる即興的なものだったが、1683年(天和3)になると完全な脚本形式が生まれる。1680年(延宝8)には富永平兵衛が「狂言作り」として名のりをあげ、ついで近松門左衛門に至って専業の作者道が確立した。近松には『傾城(けいせい)仏の原』『傾城壬生大念仏(みぶだいねんぶつ)』などがあるが、ほかに初世市川団十郎(筆名三升屋兵庫(みますやひょうご))や中村七三郎らの俳優も作者を兼ね、狂言も著しく発達した。演技術の基礎が定まり、江戸と上方(かみがた)の芸風が定まったのもこの時代である。江戸では1673年に初世団十郎が『四天王稚立(おさなだち)』の坂田金時役で「荒事(あらごと)」を創始、1679年には大坂で坂田藤十郎(とうじゅうろう)が『夕霧名残正月(ゆうぎりなごりのしょうがつ)』の藤屋(ふじや)伊左衛門役で「和事(わごと)」の芸を確立、元禄年間には芳沢(よしざわ)あやめ、水木辰之助(みずきたつのすけ)らにより女方芸の基礎が固められた。その後、荒事、和事、女方を基本として役柄はさらに分化して、立役(たちやく)(男の善人)では荒事、和事のほか実事(じつごと)、武道事(ぶどうごと)、丹前(たんぜん)、辛抱役(しんぼうやく)など、敵役(かたきやく)には実悪(じつあく)、色悪(いろあく)、公家悪(くげあく)、半道敵(はんどうがたき)など、女方には傾城のほか若女方(わかおんながた)、娘方、女武道(おんなぶどう)、悪婆(あくば)などができた。ほかにも若衆方、道化(外)(どうけ)、花車方(かしゃがた)、親仁方(おやじがた)など、いずれも原則として各役柄専業制で、二つ以上の役柄を「兼ねる」ことは例外ないしは邪道とされた。
この期はあらゆる面で科白劇としての確立期だったが、近松が浄瑠璃(じょうるり)作者に転じて世話物に名作を続出する元禄後期ごろになると、人形浄瑠璃優勢の兆しがみえ始め、やがて次の文楽吸収期を迎えるのである。また1716年に初めて河東節(かとうぶし)が劇場で出語りをしたことも、浄瑠璃界との交流、ひいては以後の歌舞伎の準音楽劇化への一環として注目される。
[河竹登志夫]
この期は、全盛の人形浄瑠璃に圧倒されながらも、浄瑠璃の名作や演出を吸収消化して義太夫(ぎだゆう)狂言(丸本物(まるほんもの))という一大ジャンルを確立し、舞台機構も歌舞伎独自の複雑な完成を遂げ、やがて江戸世話狂言の花を開くまでの拡大時代で、享保末から寛政(かんせい)(1789~1801)中期までである。この間に、一般社会と同じく演劇の中心も上方から江戸へ、人形浄瑠璃から歌舞伎へと移行していく。近松と竹本義太夫により文学的、音楽的に飛躍的成長をみた人形浄瑠璃は、近松の死後10年の1734年(享保19)人形遣い吉田文三郎(ぶんざぶろう)により三人遣い式が完成され、また竹田出雲(いずも)、並木宗輔(そうすけ)(千柳)、三好松洛(みよししょうらく)らが規模雄大でリアルな名作を次々に発表した。その頂点が『菅原伝授手習鑑(すがわらでんじゅてならいかがみ)』『義経千本桜(よしつねせんぼんざくら)』『仮名手本忠臣蔵(かなでほんちゅうしんぐら)』という三大時代物初演の1746年(延享3)から1748年(寛延1)であった。この前後約30年間は「歌舞伎はあれどもなきがごとし」といわれ、浄瑠璃の名作・名演出を追い、輸入消化するのに精いっぱいだった。しかし歌舞伎はここで、浄瑠璃のもつ高い文学性と三味線音楽を基調とする音楽的・様式的演出を確立した。荒事や遊女・遊客を描く傾城買(けいせいかい)狂言に加えて、主君のために親子・夫婦といった肉親関係を犠牲に供するという、徳川封建社会独特の近世悲劇が確立され、智(ち)仁勇兼備の英雄(『忠臣蔵』の由良之助(ゆらのすけ)、『菅原』の松王丸など)の演技、すなわち実事、ことに大立役の系譜などが歌舞伎に広く深く根を下ろしたのもこのころであった。
18世紀後半になると、浄瑠璃の制度に倣い脚本の合作が制度化され、作者の序列づけ、劇場内の作者部屋設置などが行われる。この期に浄瑠璃作者から転向した並木正三(しょうざ)(初世)は、その構想や手法を歌舞伎に生かし、『三十石艠始(さんじっこくよぶねのはじまり)』で回り舞台を完成した。これより以前、1736年(元文1)には花道が完成され、江戸では狂言により名乗り台の仮設も行われていた。
脚本の面では、正三の弟子の並木五瓶(ごへい)が1794年(寛政6)江戸へ下り、上方の合理的な作風を移入してリアルな江戸世話狂言の成立を促した。また、一つの作品のなかで時代と世話を混合して新しい狂言の筋をつくる「綯(な)い交(ま)ぜ」という従来の作劇上の不文律を破って、一番目狂言(時代物)と二番目狂言(世話物)を独立作でよしとする風を打ち出したのも五瓶である。一方、江戸生粋(きっすい)の桜田治助(じすけ)も同時代に活躍し、晩年は五瓶と対抗して江戸劇壇隆盛の基礎を固めた。作者にはほかに津打治兵衛(つうちじへえ)、藤本斗文(とぶん)、壕越二三治(ほりこしにそうじ)、金井三笑、2世並木正三、奈河亀輔(ながわかめすけ)らがいる。
この期はまた三味線音楽、舞踊劇の興隆期でもあった。ことに一中節(いっちゅうぶし)から独立して一派をたてた宮古路豊後掾(みやこじぶんごのじょう)の豊後節は、哀艶(あいえん)な心中物で江戸庶民を魅了し、情死が急増したため、風紀上有害として幕府から1739年に禁止されたほどである。しかし、この流れから常磐津(ときわず)、富本(とみもと)、下って文化(ぶんか)年間(1804~1818)には清元(きよもと)が生まれ、豊後系三浄瑠璃とよばれて長唄(ながうた)とともに劇場音楽として栄え、今日の邦楽・邦舞の基をなすのである。
この期のおもな俳優には次の人々があった。荒事を洗練し『助六(すけろく)』で新境地を開いた2世市川団十郎、丸本物の大立役の芸を確立した4世と、広い芸域を完成した5世団十郎。写実を得意とした2世と3世の沢村宗十郎、下級役者の出ながら立役主体の舞踊の芸脈を開いた初世中村仲蔵、色立役や踊りの名手4世松本幸四郎、実悪の初世中村歌右衛門(うたえもん)。女方に舞踊『娘道成寺(どうじょうじ)』を創演した初世中村富十郎、江戸・京都・大坂の三都にその美貌(びぼう)をうたわれた初世・2世・3世(仙女路考)の瀬川菊之丞(きくのじょう)、「七変化(へんげ)」を踊って次代の変化舞踊流行の源をなした4世岩井半四郎らである。
総じてこの期は、完全に前時代的なものから脱却して、今日みる歌舞伎の複雑多様な特質を確立した時代といえる。
[河竹登志夫]
この期は、歌舞伎の大勢がまったく江戸に移り、下町の庶民生活をリアルに描く生世話(きぜわ)狂言と変化舞踊が栄えた、寛政末から明治維新までの時代である。この時代には、せり、すっぽんなどのほか、がんどう返し、田楽(でんがく)返し、引道具、引割(ひきわり)などの舞台機構が発達し、弘化(こうか)年間(1844~1848)には「蛇の目(じゃのめ)」とよぶ二重の回り舞台も発明され、これらをフルに活用する変幻奔放な狂言が続出する。早替り、けれん、濡(ぬ)れ場、強請(ゆす)り場、責め場、殺し場など、変化趣向に富み、エロティシズムと暗黒面の描写の濃厚さが特色になった。それは、この期の頂点であり江戸文化後期のピークでもある化政(かせい)期、すなわち文化・文政年間(1804~1830)前後の爛熟(らんじゅく)退廃した世相の反映でもあった。登場人物も、近松物や義太夫狂言におけるような、義理と人情の板挟みになって自己を犠牲にする生き方とは違うタイプが登場する。刹那(せつな)享楽の現世的生活を追い、しかも因果の糸に操られて破滅していくという、実は孤独な小悪党や毒婦のたぐいが多い。その情緒を感覚的に裏づけるのは清元の音色であった。作者には、『四谷怪談』『お染の七役』など怪談物を含む生世話狂言を確立した4世鶴屋南北(つるやなんぼく)(大(おお)南北)、『切られ与三(よさ)』『佐倉義民伝』など白浪物(しらなみもの)や農民劇で新風をたてた3世瀬川如皐(じょこう)、『宇都谷(うつのや)峠』『三人吉三(さんにんきちさ)』『村井長庵(ちょうあん)』『弁天小僧』などで白浪作者とよばれ、七五調と下町情緒の詩的描出を洗練完成した2世河竹新七(黙阿弥(もくあみ))がある。
俳優には、役柄豊かな中村歌右衛門の3世(俳名(はいみょう)・梅玉(ばいぎょく))および4世(同・翫雀(かんじゃく))、和事・実事・所作事の名手3世坂東(ばんどう)三津五郎、実悪で名高い5世松本幸四郎(容貌(ようぼう)から鼻高(はなたか)幸四郎とよばれた)、『勧進帳』の弁慶や『四谷怪談』の伊右衛門を初演し諸役に優れた7世市川団十郎、世話物ことに怪談狂言の宗家(そうけ)といわれる3世尾上(おのえ)菊五郎、女方で生世話物ことに悪婆(あくば)役を創演した5世岩井半四郎(俳名・杜若(とじゃく))、上方風の音楽的な台詞(せりふ)・演出と写実芸ともに優れ黙阿弥の生世話物を主演して泥棒役者と異称された4世市川小団次(俗に名人小団次)らが活躍した。しかしこの期は、文化・文政の頂点を過ぎたとき、大きな屈折、すなわち天保(てんぽう)の改革による変容がおこる。1840年(天保11)に7世団十郎は能『安宅(あたか)』の作・演出を忠実に模した『勧進帳』を創演、やがて明治の松羽目物(まつばめもの)や活歴(かつれき)劇につながる高尚優雅な歴史舞踊劇の一脈を創立し、続いて歌舞伎十八番を制定して江戸劇壇における市川団十郎宗家の権威を確定した。が、その翌年に起こった天保の改革は劇界にも波及し、まず1842年には、団十郎が本物の武具を芝居に用いたのはぜいたくでまた僭上のふるまいであるとの罪科で、江戸十里四方追放を申し渡された。この取締りは他の俳優にも及び、ことに風紀上の規律は峻厳(しゅんげん)を極めた。
さらに同年、現在の中央区にあった江戸三座に対して、当時へんぴな田んぼにすぎなかった浅草猿若町(さるわかまち)へ立退き移転が命じられた。古くから俳優は河原乞食(こじき)とよばれ、低い地位に甘んじた歌舞伎ではあるが、このときに至って遊廓(ゆうかく)と並ぶ「悪所場(あくしょば)」(悪所、悪場所とも)という扱いが決定的になったともいえる。それ以後は、1872年(明治5)に守田座が都心に進出するまでの30年間、この猿若三座時代が続く。しかし改革後も天保の取締りの余波を受けていた。黙阿弥の作風が南北に比べて様式化され、徹底した悪や奔放な描写に乏しいのも、こうした時代の風潮が大きく作用している。しかも1866年(慶応2)には4世小団次に対して、生世話物の描写を淡白にせよとの通告があり、その小団次がまもなく没したのを機に、黙阿弥の作風、ひいては歌舞伎界の空気はいっそう美化、様式化への傾向を強めた。そしてその方向は明治維新により決定的になっていく。
[河竹登志夫]
明治維新後のこの期は、文明開化・欧化改良の嵐(あらし)のなかで歌舞伎が新時代に順応する努力を試み、社会的地位向上を実現したが、しだいに庶民から浮き上がり、やがて新派、新劇などの発生により、逆に古典ないし伝統演劇として保存継承の道を定めてゆく過程である。
明治維新当時、歌舞伎は唯一の庶民の現代劇として生きており、維新後も数年間は幕末の猿若三座時代のままであった。新風のおこるのは1872年(明治5)で、その第一は12世守田勘弥(かんや)が守田座を都心に進出させたこと、第二は新政府が干渉を始めたこと、第三は西洋種(だね)の新作狂言が生まれたことであった。勘弥は現中央区の新富(しんとみ)町に進出して新しい観客をとらえ、そのうえ興行面でも改良を加え、少数だが外国人用椅子(いす)席を設けるなど、劇場および興行の近代化の第一歩を踏み出した。6年後にはさらに洋化を進めた改築を行い、ガス灯を点じ、洋楽・洋装による純洋式の開場式を催すなど新機軸を試みた。一方、政府の干渉は、歌舞伎を市民の教化と上流人の社交観光とに適合させようとするもので、旧幕時代の生世話物の濡れ場や殺し場の生々しい描写と、時代物における荒唐無稽(こうとうむけい)さを排し、史実第一主義の高雅な演劇、すなわち活(い)きた歴史劇「活歴劇」の創造を促した。これを積極的に受け入れ主演して、腹芸(はらげい)といわれる心理描写の系譜を樹立したのは9世市川団十郎であった。また西洋種の芝居の嚆矢は、スマイルズ著『西国立志編(さいごくりっしへん)』による京都所演(1872)の2作『其粉色陶器交易(そのいろどりとうきのこうえき)』と『鞋補童教学(くつなおしわらべのおしえ)』だったが、翌年東京でも開化風俗を扱った黙阿弥作『東京日(にちにち)新聞』が大当りで、以後、断髪した人物が登場するなど新しい風物を描く散切(ざんぎり)狂言(散切物)の分野が5世尾上菊五郎らにより開拓されていく。活歴劇はいわば明治の時代物、散切物は明治の世話物で、ともに黙阿弥作品が多い。また彼の作による『紅葉狩(もみじがり)』『土蜘(つちぐも)』『船弁慶(ふなべんけい)』など能を忠実に摂取した新舞踊も、活歴と同じ精神によるものといえる。
明治10年代から20年にかけては、政府の欧化改良政策を反映して、劇界の洋化はさらに進み、政財学界人の介入も目だってくる。こうして外部の力が芝居に作用するのが明治の特色である。改良運動は、1886年の演劇改良会設立で頂点に達したが、翌年の天覧劇製作主催のほかはみるべき成果はなく、第一次伊藤博文(ひろぶみ)内閣退陣(1888)とともに消滅した。しかし、この会において国立劇場建設が具体的に企画され、女優やリアリズム演劇の導入、劇作家・俳優の地位向上など、多くの問題を提供した点で、近代演劇史上の意義が認められる。この会の消滅後、福地桜痴(ふくちおうち)らが歌舞伎座を建て、団十郎と結んで単独で活歴劇による改良を進めようとしたが、無味乾燥で不評に終わった。一方の散切物も、新派の日清(にっしん)戦争劇などに圧倒されて、これまた衰退、結局は活歴劇・散切物とも新派・新劇への過渡的存在にとどまり、歌舞伎改良も不徹底のまま終わった。
作者では黙阿弥が新時代順応の限界を悟ってすでに1881年に引退を声明していたが、その後もほかに人なきために執筆を続け、活歴劇、散切物、新舞踊劇のほか『河内山(こうちやま)と直侍(なおざむらい)』『髪結新三(かみゆいしんざ)』その他の名作を残した。門弟に3世河竹新七、竹柴其水(たけしばきすい)、河竹能進(のうしん)らがいたが、師の発展的継承はできず、やがて坪内逍遙(しょうよう)、松居松翁(松葉)、岡本綺堂(きどう)らの文学者による新歌舞伎にとってかわられる。すなわち、黙阿弥の死(1893)は生粋(きっすい)の江戸狂言作者の絶滅を意味し、さらに10年後(1903)の団十郎と菊五郎の死、翌年の市川左団次の死は、江戸歌舞伎役者の終焉(しゅうえん)であった。1904年(明治37)逍遙の『桐一葉(きりひとは)』が初演されたが、これ以後を近代歌舞伎とみてよいであろう。しかし新歌舞伎は、近代思想、近代的人間像を伝統歌舞伎の劇術で表現しようとする一つの分野として加えられたもので、もはや古典歌舞伎を変革改良しようとするものではない。これはその後今日まで貫かれてきた大原則である。
団菊左の死後は、歌舞伎座の盟主5世中村歌右衛門、帝国劇場の頭領6世尾上梅幸をはじめ、7世松本幸四郎、15世市村羽左衛門、7世市川中車、関西の初世中村鴈治郎(がんじろう)、11世片岡仁左衛門、2世実川延若(じつかわえんじゃく)らがあり、新しい演劇運動にも意欲を示した2世市川左団次、6世尾上菊五郎、初世中村吉右衛門(きちえもん)、13世守田勘弥、2世市川猿之助(のちに猿翁(えんおう))らが活躍した。その動向は6世中村歌右衛門、中村勘三郎、尾上松緑、7世梅幸、13世仁左衛門その他に及んでいる。なお、明治末から大正・昭和にかけての著しい動きとしては、2世左団次の自由劇場運動、菊五郎・吉右衛門の二長町(にちょうまち)(市村座)時代、勘弥や猿之助による文芸的戯曲(菊池寛・山本有三・谷崎潤一郎ら)の上演、河原崎長十郎・中村翫右衛門(かんえもん)らの前進座独立、6世菊五郎の俳優学校などがあるが、芸術としての歌舞伎の大きな流れは変わらなかった。1910年に関西から進出した白井松次郎・大谷竹次郎兄弟の松竹合名社は、新富座をはじめ次々に東京の劇場を買収し、近代企業的経営により興行法を一変、未曽有(みぞう)の歌舞伎王国を築いた。しかし、スター本位で、見せ場中心羅列主義の傾向が助長されたことも否定できない。
第二次世界大戦直後には、占領軍当局の弾圧により歌舞伎の危機が叫ばれた。仇討物(あだうちもの)や残酷場面は上演禁止となり、一時は滅亡が伝えられたが、関係者(主軸俳優、大谷竹次郎、河竹繁俊(しげとし)ら)の努力の結果、1947年(昭和22)11月『忠臣蔵』の完演許可をもって全面的に解禁となった。現在は明治以来の検閲もなくなり、自由な演出が可能となっているが、1966年11月の国立劇場開場は、古典としての伝承という方向を打ち出している。開場当初は古い作品の発掘復活も含めて通し狂言一本立ての方針をとり、スペクタクルのみならずドラマとしての歌舞伎の生命の回復を試みたが、しだいに松竹の興行と大差ない狂言の配列に転じてきた。また2世左団次の訪ソ(1928)に始まる海外公演も、第二次世界大戦後、アメリカ、ヨーロッパ、中国、オーストラリアなど各地を回り、日本の伝統的演劇としてのみならず、世界の文化財としての評価も高まってきている。
[河竹登志夫]
歌舞伎の劇場や舞台は能の模倣に始まり、前述のように18世紀末には完全にこれを脱却、独自の諸機構を備えるに至った。
舞台はまず花道と回り舞台を第一の特色とする。花道は「纏頭(はな)」(祝儀)を贈る道の意味から転訛(てんか)したとされるが、その機能は単なる役者の登退場口ではなく、客席を貫き、観客との至近距離における共感交流を実現するところにある。観客は一桝(ます)4人か6人の桝席に、たばこ盆を中にして座り、酒肴(しゅこう)を楽しみ、ひいき役者の屋号を大声で呼びながら芝居を見たのである。当時のプレイガイド兼料理屋であった芝居茶屋から、俗に「かべす」と呼び習わした菓子、弁当、すしなどを取り寄せ、長い幕間(まくあい)には茶屋で休んで衣装をかえ、二の膳(ぜん)付きの料理を食べるという習慣もあった。芝居小屋は単なる観劇の場ではなく、人気役者との交歓の場であり、供宴の場であった。それは遠く阿国(おくに)歌舞伎や若衆(わかしゅ)歌舞伎の時代に、役者が売色を兼ねたことと無関係ではない。遊廓(ゆうかく)とともに「二悪所」として幕府の取締りの対象になった大きな理由も、そこにあった。しかし、明治以後の近代化の結果、花道は残ったが、茶屋制度は漸減し、やがて消滅、桝席も関東大震災(1923)後は椅子(いす)席にとってかわられ、現在2、3の劇場の桟敷(さじき)におもかげをとどめる程度である。これは歌舞伎本来の機能からみれば退化といわねばならない。回り舞台は単に場面転換が早いという実用目的だけでなく、舞台を明るいまま回して場面の推移そのものや、変化する場面の対照による劇的効果にも大きな意味がある。たとえば『四谷怪談』における伊右衛門(いえもん)の貧家と、隣の喜兵衛邸の華やかな奥座敷との回り舞台による再三の対照が、お岩悶死(もんし)の陰惨な局面をいかにも際だたせている。
花道と回り舞台は、ともに自然主義リアリズムとは別系統の、いわばバロック的な演劇性、劇場性の現れといえる。上手(かみて)(観客席から見て舞台の右手)のチョボ(義太夫(ぎだゆう))床(ゆか)、下手(しもて)(同じく左手)の黒御簾(くろみす)(お囃子(はやし)部屋)の常設は、さらに歌舞伎の音楽劇的性格を示している。ほかに大小数個のせり上げ装置、花道に付設した「すっぽん」とよぶ小さいせり、早替り用の仕掛け、舞踊劇のときに音楽奏者のために本舞台上に仮設される出語り・出囃子のための山台(やまだい)・雛壇(ひなだん)など、歌舞伎の舞台は多くの細部機構からなる。中世武家の感覚で洗練された能が万事に象徴化を旨としたのに対して、歌舞伎舞台は庶民の求めた現実性や即物的な感覚を反映している。舞台も客席にやや張り出し、公認の大劇場ではもっぱら3色(黒・暗緑色・柿(かき)色)染分けの引幕(ひきまく)を用い、今日の額縁舞台で緞帳(どんちょう)(カーテン)も併用されるのは明治以後のことである。
[河竹登志夫]
本来、歌舞伎は歌舞に発したもので、文学的戯曲が先に存在したのではない。したがって、初めは簡単な口立(くちだ)て式で、やがて荒事(あらごと)や傾城買(けいせいかい)狂言が成立、さらに浄瑠璃(じょうるり)が導入されて発展し、後期江戸世話物と所作事(しょさごと)で大成された。これらの狂言を分類すると、義太夫狂言(丸本物(まるほんもの))と純歌舞伎狂言とに分けられる。『忠臣蔵』『菅原(すがわら)』『千本桜』『妹背山(いもせやま)』『一の谷』などは前者、『助六(すけろく)』『鳴神(なるかみ)』『暫(しばらく)』その他の歌舞伎十八番や『五大力(ごだいりき)』『四谷怪談』『弁天小僧』などは後者にあたる。しかし、普通はそのおもな登場人物の属する時代、世界、事件の展開する環境などから、時代物と世話物に分け、さらに舞踊劇と新歌舞伎のジャンルを加えるのが便宜である。
[河竹登志夫]
公家(くげ)や武家の世界を描いたもので、さらに細分すれば次の3種となる。
(1)王代(王朝)物 平安末までの貴族・公家の世界(妹背山、菅原、芦屋道満大内鑑(あしやどうまんおおうちかがみ)、伊勢(いせ)物語など)
(2)狭義の時代物 源平から戦国にかけての戦乱武将の世界(義経千本桜、一谷嫩軍記(いちのたにふたばぐんき)、絵本太功記、俊寛、ひらかな盛衰記、廿四孝(にじゅうしこう)など)
(3)御家物 江戸時代の御家騒動の世界(先代萩(せんだいはぎ)、加賀見山、忠臣蔵など)
なお明治に生まれた活歴劇も時代物に加えてよい。
[河竹登志夫]
江戸・京坂の庶民を扱ったもの。細分して、普通にいう世話物と生世話物(きぜわもの)となる。前者には『曽根崎心中(そねざきしんじゅう)』『心中天網島(てんのあみじま)』『梅川忠兵衛』など近松系のものや、まっとうな世界を扱ったもの。生世話物は、化政(かせい)期(1804~1830)以降の江戸の下層社会をリアルに描いたもので、『四谷怪談』『お染の七役』や『三人吉三(さんにんきちさ)』『村井長庵』『弁天小僧』のような白浪物が大きな部分を占める。『霜夜の鐘』や『島ちどり』のような明治風俗を扱った散切(ざんぎり)物も新世話物としてここに加えられよう。
[河竹登志夫]
所作事。長唄(ながうた)、常磐津(ときわず)、富本(とみもと)、清元(きよもと)、あるいは竹本(たけもと)(義太夫節)など、三味線曲によって分類することができる。原拠からみれば、まず『娘道成寺』『紅葉狩(もみじがり)』のような能取り物、そのなかには『土蜘(つちぐも)』『船弁慶(ふなべんけい)』のような松羽目(まつばめ)物や『身替座禅(みがわりざぜん)』『棒しばり』のような松羽目狂言舞踊がある。次に長い劇の舞踊場面を独立させたもの、たとえば『道行初音旅(みちゆきはつねのたび)』(千本桜のなか)、『道行旅路花聟(たびじのはなむこ)』など、さらに純歌舞伎舞踊の『関の扉(と)』『六歌仙(ろっかせん)』などに分けることもできる。
[河竹登志夫]
前に述べたように明治以後の、劇場の内部にいる座付狂言作者でない近代作家の作をさす。おもな作家と作品は、坪内逍遙(しょうよう)(桐一葉(きりひとは)・沓手鳥孤城落月(ほととぎすこじょうのらくげつ))、松居松葉(悪源太)、岡本綺堂(きどう)(修禅寺物語・鳥辺山心中・番町皿屋敷・権三(ごんざ)と助十)、岡村柿紅(しこう)(身替座禅)、榎本虎彦(えのもととらひこ)(名工柿右衛門)、岡鬼太郎(おにたろう)(今様薩摩(いまようさつま)歌・御存知東男(ごぞんじあずまおとこ))、池田大伍(だいご)(名月八幡祭(はちまんまつり)・西郷と豚姫)、長谷川伸(はせがわしん)(一本刀(いっぽんがたな)土俵入・瞼(まぶた)の母)、真山青果(玄朴と長英・江戸城総攻(そうぜめ)・元禄(げんろく)忠臣蔵)などである。これらは明治・大正から昭和の戦前にかけての新歌舞伎で、2世左団次のために書き下ろされたものが多い。ほかに大正後期には、のちに小説家として大成する作家の文学的戯曲がかなり上演された。菊池寛(父帰る・屋上の狂人)、山本有三(同志の人々・坂崎出羽守(でわのかみ))、谷崎潤一郎(お国と五平・恐怖時代)などで、6世菊五郎、13世勘弥、2世猿之助(猿翁(えんおう))らがこれらの作に活躍した。なお昭和期には、戦前6世菊五郎のために書き、戦後も最近まで作家活動を続けた宇野信夫(のぶお)(巷談宵宮雨(こうだんよみやのあめ)・柳影沢蛍火(やなぎかげさわのほたるび))のほか、戦後に舟橋聖一(源氏物語)、大仏(おさらぎ)次郎(若き日の信長)、北条秀司(ひでじ)(狐(きつね)と笛吹き・浮舟)、三島由紀夫(鰯売恋曳網(いわしうりこいのひきあみ))などの作品が加えられている。以上の多くは現在なおときおり復演され、新歌舞伎という一ジャンルをつくっているが、歌舞伎のための新しい作家はなかなか現れず、現在では野口達二(富樫(とがし)・陸奥(みちのく)の義経(よしつね))以外にめぼしい新進作家がいない。
[河竹登志夫]
古典作品は明治以降、西洋の合理的尺度からは荒唐無稽(こうとうむけい)であると非難された。確かに花川戸の助六が実は曽我(そが)の五郎であったり、史実で死んだはずの平知盛(とももり)が船問屋の主人になって生き延びていたりする。また大石内蔵助(くらのすけ)は大星由良之助(ゆらのすけ)、浅野内匠頭(たくみのかみ)は塩冶判官(えんやはんがん)、羽柴(はしば)秀吉は真柴久吉(ましばひさよし)という名で現れ、その久吉が石川五右衛門と京都の南禅寺で出会ったりする。しかし、これにはそれぞれ理由があった。助六は江戸の町人だが、当時は、町人の芝居は時代狂言ことに御家騒動物の世界の一部として書くべしという不文律があったのである。そこで、いわゆる「綯(な)い交(ま)ぜ」の手法が用いられた。2世並木正三は著書『戯財録(けざいろく)』のなかで、「世界は竪筋(たてすじ)、趣向は横筋」と述べ、例として「太閤記の世界に石川五右衛門の趣向を横筋として入れる」ことをあげている。並木五瓶(ごへい)が二番目を独立させたのちにも、随時この方法は使われた。『四谷怪談』が化政(文化・文政)期の世相人心を扱いながら、劇的世界としては『忠臣蔵』の世界に設定されているごときである。また、名を変え、時代を変えるのは、幕府の取締りを逃れるためであった。
綯い交ぜ式はことに江戸市民の夢幻や奇想天外を好む気風の反映でもあり、上方(かみがた)は浄瑠璃にみられるように、より合理的な構成をもつ。それでも西洋の三単一(時・所・筋の単一性)を基調とする近代自然主義的なリアリズム戯曲などに比べれば、荒唐無稽というべき一面をもっている。しかし、江戸時代の民衆にとっては、その合理性よりもフィクションがたいせつで、さらに役者の芸を中心とする演劇としてのダイナミックなおもしろさ、舞台とともに遊ぶ供宴性、各局面ごとに発散される人情の真実と官能の陶酔のほうがはるかに貴重だったのである。それは、歌舞伎脚本が、ト書(とがき)にせよドラマ自体にせよ、細部までは書ききっておらず、多くを役者の演技にゆだねていることにもうかがえる。
[河竹登志夫]
とくに歌舞伎では、役者すなわち俳優の比重が非常に大きい。社会的には河原者(かわらもの)、河原乞食(こじき)とよばれ、士農工商の下に甘んじたが、江戸庶民にとってはあこがれの的であり、流行の源泉でもあった。役者絵や芝居絵が遊女の絵と並んで江戸美術の中心をなし、役者の名をとった吉弥(きちや)結び、市松(いちまつ)模様、三升格子(みますごうし)、路考茶(ろこうちゃ)、芝翫香(しかんこう)から現代の扇雀飴(あめ)に至るまで、その風俗的な広がりは大きい。
各時代の名優や芸統などは歴史の項で記したとおりだが、古くはいずれか一つの役柄を専業とするのが原則であった。これは西洋でもギリシアやローマのミモス(職業的大衆劇)の流れをくむといわれるイタリアのコメディア・デラルテなどにもあり、即興劇的起源をもつ職業劇団には一般にみられることである。役柄には立役(たちやく)(和事(わごと)・実事(じつごと)・武道事(ぶどうごと)・ピントコナなど)、女方(女形)(おんながた)、敵役(かたきやく)(実悪(じつあく)・実敵・色悪・立敵・平敵・端敵(はがたき))、若衆方(二枚目)、道化(どうけ)方(道化・半道敵(はんどうがたき))、親仁(おやじ)方、花車(かしゃ)方、継母方などがある。のちには「加役(かやく)」と称して本来の専門のほかに「兼ねる」ことが行われるようになった。6世菊五郎は近代の代表的な兼ねる役者である。なお、歌舞伎の女方の芸は、いったん阿国などの女性芸能が普及し禁令を受けたのちに発達したところに特徴がある。日本・西洋とも、中世末までは宗教的な理由で、公認の演劇はもっぱら男優が演じていた。シェークスピア劇さえも女役は少年俳優が演じたくらいで、男が女に扮(ふん)すること自体はごく一般的なことであった。しかし、歌舞伎の女方は、すでに女性の官能的魅力とリアリティーを享受したのちの江戸の庶民を観客にもち、その嗜好(しこう)に投ずべくくふうしなければならなかった。名女方の芳沢(よしざわ)あやめが芸話集『あやめぐさ』のなかで、女方は日常生活でも女性であれと教えたのは、そうした要請によるものであり、女性以上の女らしさをとらえ、強調し、典型的に表現する女方の演技が訓練された。
俳優は世襲的で、役柄もまた世襲のケースが多く、芸名のほかに歌舞伎独特の屋号をもつ。これは、士族でないのに姓を名のることに対する憚(はばか)りに基づいている。屋号にはそれぞれゆかりがあり、代々の団十郎が成田(なりた)(不動尊)信仰にちなんで成田屋というごとくである。ほかに俳号や筆名ももち、たとえば初世団十郎は、芸名と屋号成田屋、俳号才牛(さいぎゅう)に作者名三升屋兵庫(みますやひょうご)と四つの呼び名をもっていた。世代数としては現在、中村勘三郎の18世がもっとも多い。なかには初世中村仲蔵や4世市川小団次、初世左団次、初世中村吉右衛門のように、さしたる名家でなくて座頭(ざがしら)級の名優になった例もある。今日では、主として興行政策から襲名披露が華々しく行われるが、一方で脇役(わきやく)や馬の脚(あし)その他、歌舞伎演技の底辺を支える俳優の重要性が叫ばれている。国立劇場では、中学卒業を資格とする一般応募者を求めて、俳優養成機関を開設しているが、これは世襲制とともに将来の重要課題とされ、成果が注目されている。
[河竹登志夫]
歌舞伎は演目により演出様式が異なる。義太夫狂言はチョボの語りによって音楽化され、世話物はせりふとしぐさ主体で、はるかに写実的である。同じ世話物でも江戸と上方では情調が違うし、時代物でも江戸の荒事と義太夫狂言とではまたまったく異なる。しかし、そうした個々の差を越えて歌舞伎演出の特色といえるのは、いわゆる「様式性」ということである。舞台機構にもみられるように、自然主義的写実でなく、三味線を基調とする複雑多彩な音感と、絵画的構成と色彩感を重視する視覚性とによって、一種の表現主義的ともいうべき準音楽的総合芸術をなすことである。荒事における隈取(くまどり)の誇張された化粧法、見得(みえ)という静止的演技、その瞬間を強調するために打ち込む「ツケ」という木片の激しい音などは、その現れといえる。リアルを本領とする江戸の生世話物でさえも徹底した写実でなく、肝心のところや幕切れなどはかならず様式化されている。『三人吉三』大川端のお嬢吉三の七五調の台詞(せりふ)や、出会いの場の3人の見得、あるいは『弁天小僧』稲瀬川勢揃(いなせがわせいぞろ)いの場などはその例である。
音楽的ということは、台詞もメロディをもち、動作も舞踊を基礎としたある律動と形容をもつことにも示されている。この音楽性と舞踊性は、阿国や若衆歌舞伎の時代から貫かれている歌舞伎の芸の本質といえるであろう。濡(ぬ)れ場、口説(くどき)などはもちろん、極端な場合として、殺伐なる立回り(乱闘)や殺し場でさえ、音感と様式的動作によって美化されているのである。主役を浮き出させることも歌舞伎演出の重要な一面である。豪傑が見得を切ると、敵方の兵卒たちが口をそろえて「でっけえ」とほめたり、花道に立つ主人公に「面明(つらあか)り」(差出し)という蝋燭(ろうそく)を用いてスポットの役を果たしたり、厄(やく)払い・つらねなど長い独白を朗々と述べることが局面の中心をなすなど、役者の柄と芸をもっとも有効に見せることにくふうが払われる。
音楽は、義太夫狂言における床(ゆか)の語りを除くと、二つに大別される。一つは所作事のときに雛壇や山台に乗って舞台に姿を見せて演奏する三味線音楽と鳴物連中で、それぞれ「出語り」「出囃子(でばやし)」という。他は陰囃子(かげばやし)で、普通、下(外)座(げざ)音楽というが、黒御簾(くろみす)の中で演奏するので「黒御簾音楽」ともいわれる。これには「踊り地」「めりやす」「陰」の3種がある。ここには三味線のほか、大太鼓、各種の鼓、笛、釣鐘、鉦(かね)、銅鑼(どら)、双盤(そうばん)、木魚、四つ竹、木琴、胡弓(こきゅう)、拍子木その他、あらゆる楽器が備えられている。そして歌舞伎の即物的様式性は、大太鼓一つで攻め太鼓はもちろん、雨、風、波、深山幽谷のような自然現象の、擬音的でしかも象徴味の濃い表現や、音のない雪とか幽霊出現の予兆のような、情景や雰囲気をかもしだす音響効果などまで、何十種もの音を使い分けることにもうかがえる。そして上手の幕の陰で打つ拍子木の響きが開幕と閉幕を告げるのである。
様式性ということとともに、歌舞伎の演出構成上の重要な特質は、見せ場(局面、趣向といってもよい)を主体として、これが筋によって運ばれていくという形をとることである。たとえば「縁切り物」といわれる芝居なら、見染(みそ)め、恋慕から遊里での愛想(あいそ)づかし(縁切り場)、殺し場……と展開するのが定法である。見せ場には、これらの縁切り場や殺し場のほか、濡れ場、責め場、強請(ゆす)り場、愁嘆場などいろいろあり、だんまり、髪梳(かみす)き、切腹、道行、仇討(あだうち)、対決などの局面もやはり見せ場の典型である。歌舞伎の演技演出の様式も、実はこうした見せ場を核としてくふう、洗練が重ねられて成立したのであって、極言すれば、筋は、これらの見せ場をつなぐ団子の串(くし)のようなものといってもよい。
音楽・舞踊をふんだんに盛っての様式性、花道・回り舞台ほかさまざまの舞台機構や仕掛け物を用いての変幻自在さ、けれんや妖怪(ようかい)出現まで駆使しての奇想天外なスペクタクル的おもしろさなど、これらの特質を総合して世界演劇のなかに歌舞伎を置いてみれば、前述のようにコメディア・デラルテやドイツ・バロック、スペイン劇、シェークスピア、ないしは近代ではラインハルト、クレイグ、メイエルホリド、ブレヒトなどに通じる反古典主義・反自然主義の演劇、いわゆるバロック的演劇の系譜に入れられるべきものであろう。自然主義リアリズムに行き詰まった西洋近代演劇が、歌舞伎に新鮮な驚異を感じたのは、日本の風土的エキゾチシズムだけではなく、このような演劇性に前衛性をみたからと思われる。
[河竹登志夫]
歌舞伎と近世社会の密接な関係についてはすでに述べたが、歌舞伎は町人の生活の一部であった。それは、歌舞伎にみられる季節感、それに関連して行われていた「芝居年中行事」としての興行制度にも端的に示されている。各座の俳優雇用契約期間は1年で、更新は旧10月の座元たちの合議により行われた。新しい座組(ざぐみ)で開場するのは11月で、これがすなわち「顔見世(かおみせ)狂言」であった。顔見世の初日は、暗いうちから舞台を清め、座元が「翁渡(おきなわた)し」と称して三番叟(さんばそう)を舞い、1年間の繁盛を祈願する。そこで「顔見世や一番太鼓二番鶏(どり)」の句も生まれた。団十郎の出演するときは、かならず『暫(しばらく)』が上演された。次は1月の初春狂言(関西では二の替りという)で、『曽我(そが)の対面』などの祝儀物がかならず一つは出た。3月が弥生(やよい)狂言で、『助六由縁江戸桜(ゆかりのえどざくら)』のように桜にちなむ狂言や、御殿女中の宿下りを当て込んでの『加賀見山(かがみやま)』『先代萩(せんだいはぎ)』のような局(つぼね)・腰元の出る御家物がよく上演された。5月は皐月(さつき)狂言とよばれるが、向暑の季で、そう重要ではなく、梅雨(つゆ)があけて盆になると盆狂言、また夏狂言として怪談物や水狂言(本水(ほんみず)を使う芝居)が出る。立作者や高級役者は休み、値安興行だが、若手や下級の人々の技量の見せ所、登竜門でもあった。9月は秋狂言で、1年間の最後の興行なのでお名残(なごり)狂言ともいう。しっとりと重厚な義太夫狂言を出し、名残にちなんでの「子別れ」物、たとえば『葛の葉(くずのは)』『重の井(しげのい)』などが演じられた。このような年中行事は民間の祭礼や季日に並行したもので、庶民生活との関係の深さが知られる。幕末も嘉永(かえい)(1848~1854)ごろからは騒然とした社会情勢に伴って民間行事も乱れがちとなり、興行のたて方も前記のような秩序が崩れていった。まして冷暖房の完備した今日は、顔見世、初春といっても興行政策上のタイトルにすぎない。なお、興行は、各座元(座主)が金主(金方)からの借金によって行ったが、赤字が続くと名義を変更し改めて借り入れて挽回(ばんかい)を図り、清算が済むとまた元の名に戻るという方法がとられた。その別名義を控櫓(ひかえやぐら)といい、中村座の控櫓は都座、市村座のは村山座または桐(きり)座、守田(森田)座のは河原崎座であった。
[河竹登志夫]
歌舞伎は明治維新以来の日本の近代化のなかで、複雑な曲折をたどったすえ、今日ではまず第一に古典的様式を保存継承さるべき伝統演劇として位置づけられている。その経緯は「歴史」の項で述べたとおりだが、他面において歌舞伎は、新作の上演、観客の質や上演時間の変化に対応しての古典の添削補綴(ほてい)などにより、生きた現代演劇としての発展にも努めている。さらに近年は新劇・前衛的演劇などの現代演劇とも交流を深め、また国際交流の活発化を背景として、演技演出のうえでも西洋演劇に影響を及ぼすなど、著しく貢献しつつあり、世界的価値を認められるに至っている。
日本においては、明治の演劇改良運動以来、歌舞伎は急速にその社会的地位を高めたが、第二次世界大戦後は文化国家としての日本の政策にも促されてその傾向は進んだ。俳優のなかから芸術院会員、文化勲章受章者が続出し、伝統歌舞伎保存会が設立され、音楽まで含めて人間国宝(重要無形文化財保持者)の国家指定を受けるなどはその現れである。国立劇場の設立、その機能の一つとしての俳優その他の養成機関の設置などにも、文化的役割の重要性の認識が反映している。戦後いち早く発足して現代も続けられている東京都教育委員会・都民劇場・松竹主催の「子供かぶき教室」や、国立劇場の「学生のための歌舞伎教室」、文化庁主催の青少年芸術劇場や移動芸術祭における歌舞伎地方巡演、NHKの学校放送や舞台中継なども、若い観客の育成による伝統歌舞伎の発展的継承に大きく寄与している。
現代演劇への寄与としては、明治以来シェークスピアはじめ西洋演劇の翻案・翻訳上演などにより、新派・新劇への橋渡しの役割を担ったが、近年はさらに積極的に現代演劇の世界に関与・参加するようになった。9世松本幸四郎のミュージカル進出、故17世中村勘三郎・故2世尾上松緑・15世片岡仁左衛門・5世坂東(ばんどう)玉三郎らのシェークスピア劇や現代劇への出演などはその一例にすぎない。多くの人気俳優のテレビ出演も盛んで、それが歌舞伎の現代観客獲得に役だっている面もある。一方、新劇・前衛演劇の側からの歌舞伎評価、摂取への動きも見逃せない。たとえば、俳優座、青年座、早稲田(わせだ)小劇場などによる『四谷怪談』など南北作品の実験的上演は、近代リアリズムにはなかった歌舞伎の手法に新しい光をあて、未来の演劇にとっての歌舞伎の意義を改めて認識させた。
近代リアリズム、西洋演劇と違う歌舞伎の特質は、明治以来、部門的には外国に注目され、摂取もされていた。ラインハルトによる回り舞台の応用と発展、メイエルホリドによる花道式の演出などはその例で、エイゼンシュテインを通じ映画にも影響を与えた。しかし歌舞伎の特質が全体としてとらえられ、総合演劇あるいは全体演劇(トータル・シアター)の一つの典型として評価されるようになったのは、1960年(昭和35)以降である。この年実現した史上初のアメリカ公演以来頻度を増した海外公演と、それに伴って外国人研究者が急速に増しつつあることが、その要因である。ことに海外で『忠臣蔵』『俊寛』などのドラマものが絶賛されたことは、独自な美とともに、人間の劇としての普遍性、質の高さを自他ともに認識させた。1980年代に入ってからは、単に鑑賞だけでなく、深く研究し実践的に習得摂取しようとする姿勢が強まっている。現(3世)市川猿之助による西欧演劇人対象の研修教室の盛況、1983年ウィーン大学演劇学研究所におけるヨーロッパ日本演劇研究センターの創立、ヨーロッパ歌舞伎研究会議の発足などは、その現れである。また西欧の舞台におけるせり上げ・せり下げ、黒衣(くろご)の実験的使用、立回りや落入り(死)場面における様式的演技などに、回り舞台や花道応用以来の歌舞伎劇術摂取も、近年とみに活発になっている。
このように歌舞伎は現在、能・狂言・文楽(ぶんらく)と並ぶ伝統演劇としての地位を確立するとともに、内外において現代・未来の演劇に寄与する演技演出の様式の宝庫としても、重要な意義をもつ舞台芸術となっている。
[河竹登志夫]
なお、伝統的な演技演出様式によって上演される歌舞伎は、2008年(平成20)ユネスコ(国連教育科学文化機関)の無形文化遺産に登録された。
[編集部]
『守随憲治・秋葉芳美著『歌舞伎図説』(1931・万葉閣)』▽『河竹繁俊著『歌舞伎史の研究』(1943・東京堂出版)』▽『戸板康二著『歌舞伎への招待』正続(1950、1951・暮しの手帖社)』▽『伊原敏郎編『歌舞伎年表』全8巻(1956~1963・岩波書店)』▽『河竹登志夫著『比較演劇学』正続(1967、1974・南窓社)』▽『戸板康二他編『名作歌舞伎全集』全25巻(1969~1972・東京創元社)』▽『郡司正勝著『かぶき――様式と伝承』(1969・学芸書林)』▽『服部幸雄他編『歌舞伎事典』(1983・平凡社)』▽『役者評判記研究会編『歌舞伎評判記集成』(第2期)10巻・別巻1(1987~1995・岩波書店)』
演劇雑誌。1900年(明治33)1月創刊。森鴎外(おうがい)の弟三木竹二(みきたけじ)の主宰で東京画報社刊。創刊当時は明治の名優9世市川団十郎、5世尾上(おのえ)菊五郎、初世市川左団次らが健在であり、また幕末の劇界を知る古老もいたことから、歌舞伎の劇評、史伝、考証に精緻(せいち)を尽くしたが、西洋文化の輸入とともに外国演劇にも誌面を割き、明治末期にイプセンやストリンドベリの戯曲を掲載した。1908年に三木竹二が急逝し、伊原青々園(いはらせいせいえん)(敏郎)が編集を受け継いだが、15年(大正4)1月、通巻175号で廃刊。歌舞伎のみならずわが国演劇界の状勢、ひいては広告欄も含めて世相の推移を知るのに好個な資料といえよう。なお、同じ名前の雑誌が25年5月に歌舞伎座から吉田暎二(てるじ)の編集で再刊され、30年(昭和5)6月まで続き、さらに68年7月から78年4月まで、同じく歌舞伎座から季刊誌として、野口達二の編集で刊行された。
[土岐迪子]
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出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
歌舞妓とも。本来は「傾(かぶ)き」つまり異常な行動をとる意で,この風俗を舞台化したのが,1603年(慶長8)に始まる阿国(おくに)歌舞伎(女歌舞伎)である。これは容色本位の舞踊劇で,売色による風俗的弊害から禁止され,歌舞伎は男優の演劇となった。かわって脚光をあびた若衆(わかしゅ)歌舞伎も同理由で禁止され,その後の歌舞伎は技芸本位への質的転換を余儀なくされた。これが結実するのが元禄期で,名優が輩出した。その後,浄瑠璃に押されて一時停滞するが,戯曲作法の確立,舞台機構の開発,所作事(しょさごと)の発達などにより,18世紀後半には再び隆盛をみた。文化・文政期から幕末にかけては退廃・解体期で,生世話物(きぜわもの)の発生と役柄の解体などが特徴。明治期以降は,演劇改良運動の影響で歌舞伎は高尚化・古典化の道をたどった。舞踊・狂言の両要素をあわせもった演技・演出法や,「世界」と「趣向」による作劇法など,現在も日本独特の古典演劇として伝承される。
出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報
出典 (株)朝日新聞出版発行「とっさの日本語便利帳」とっさの日本語便利帳について 情報
出典 旺文社日本史事典 三訂版旺文社日本史事典 三訂版について 情報
出典 日外アソシエーツ「事典 日本の地域遺産」事典 日本の地域遺産について 情報
出典 シナジーマーティング(株)日本文化いろは事典について 情報
…歌舞伎の始祖とされる安土桃山時代の女性芸能者。生没年不詳。…
…とはいえ,メーテルリンクの戯曲によるドビュッシーの《ペレアスとメリザンド》,ワイルドの戯曲によるR.シュトラウスの《サロメ》,G.ビュヒナーの原作によるベルクの《ウォツェック》のように,ごくまれに幸福な結びつきが見られるのも事実である。
[オペラと歌舞伎]
明治年間にドイツに留学した森鷗外は,故郷への便りの中で,オペラという言葉にかえて〈西洋歌舞伎を見た〉と記したという。これは,たいへん巧みな比喩と言えよう。…
… その間,諸寺院では僧侶たちによる延年(えんねん)の芸能が行われ,民間では白拍子(しらびようし),曲舞(くせまい),幸若舞(こうわかまい)などの遊行芸能者による歌舞や,極楽往生を願う民衆が念仏を唱えつつ群舞する踊念仏,さらには若い男女が華麗な衣装と小道具を誇示して踊る風流踊(ふりゆうおどり)(風流)などが流行した。長い戦国の争乱ののち,徳川幕府が成立したのは1603年(慶長8)であったが,この年京の河原で名のりを挙げた出雲のお国の歌舞伎踊には,それら踊念仏や風流踊などの要素が多彩に取り込まれていた。当初女性主体の歌舞伎踊は29年(寛永6)風俗紊乱(びんらん)のかどで少年主体の若衆(わかしゆ)歌舞伎に変わり,さらに52年(承応1)以後は成人男子中心の野郎(やろう)歌舞伎に変わって,以後演劇色を強めるに至る。…
…その際の主催者は,寺社の勧進聖(かんじんひじり)か芸能者自身であった。近世初期,歌舞伎の始まりといわれる出雲のお国が京の四条河原で〈ややこ踊〉を演じたのは,すでに興行の形態をとっていたといわれる。女歌舞伎は,遊女の抱え主が主催者となって,掛小屋で木戸銭(入場料)をとって歌舞伎踊をみせた。…
…女装両性具有【川添 裕】
[日本演劇における変装の宇宙]
変装によって性を変える行為は,古今東西の演劇に多く見られる。すなわち,中国の京劇,イギリスのシェークスピア劇,日本では能楽,歌舞伎(および日本舞踊),種々の民俗芸能などが代表的な例である。なかでも歌舞伎は,この変装のもつ官能の美と愉楽を最もよくその演劇世界に取り入れて体現した,比類なき芸能であるといってよい。…
…また福招きの人形として知られる〈叶(かのう)福助〉の流行にのって,文化1年(1804)春には,生福助の見世物が最も人気があった。幕末には,竹沢藤治の曲独楽や早竹虎吉の軽業の類が,歌舞伎の所作事の振(ふり)を取り入れて〈高小屋物〉と称して,見世物の第一等の地位を占めた。 明治時代になると,力持,女角力,足芸,猿芝居,ろくろ首,化物屋敷などの従来のもののほかに,西洋から輸入した玉乗り,曲馬,魔術などが加わった。…
…相撲興行などがあるとき,客寄せのために櫓をたて,その上で打つ太鼓のこと。慶長期(1596‐1615)の絵画に,相撲,能,歌舞伎興行のとき,興行場の木戸口の上に櫓をたてているのが見えるが,江戸時代初期には,櫓は公許興行のあかしとして設けられ,興行することを〈やぐらをあげる〉ともいった。寛文~元禄期(1661‐1704)のころには櫓にやり,突棒(つくぼう),刺股(さすまた),袖搦(そでがらみ)などの武器を外に向けて飾りたてた。…
…20世紀に入って,ドイツのブレヒトも歴史劇に大いに関心を示していたし,今日では,イギリスのジョン・アーデンも歴史劇作家の一人に加えておかねばなるまい。
[日本]
日本では,能(《安宅》など)や人形浄瑠璃にも広義の歴史劇が見いだされるが,特に,歌舞伎には,広義の歴史劇の典型が見られる。王朝物や時代物の多くの作品がそれであり,例えば,《勧進帳》や《菅原伝授手習鑑(てならいかがみ)》などは偉大なるアナクロニズムの産物であり,弁慶や牛若丸といった登場人物たちは大いなる〈神話化〉を遂げているのである。…
※「歌舞伎」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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